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第553話 白い壁と青い窓 (16)

「まあな。でも仕事となりゃ、おまえだってやるさ。」 「仕事? 東京土産っておふくろに買ってくんじゃないの。」 「それもあるけど、交替してもらった先生に。」 「ああ、そうか。」 「そういう、義理とか社交辞令とかしがらみとか、学校の先生ならあんまりないと思ったんだけどね。」 「あるんだ?」 「ある。」宏樹は苦笑する。 「大変だね。」 「大変じゃない仕事なんてない。」 「そっか。」 「と、涼矢のお母さんが言ってた。」 「ああ、言いそう。」和樹は佐江子の口調を容易に再現できた。  そんなことを話していると、病室の空気がふと変わった。白石の主治医が入ってきたのだった。和樹の診察や手術を担当した医師とは別人だったので、初対面だ。 「ああ、奥様もいらっしゃる? ちょうどよかった、そしたら、診察室でお話ししましょうか? ね。」柔和ながらノーとは言わせない圧のある言い方だった。「立ち上がれます? 車椅子持ってきましょうか?」 「いやいや、もう平気だよ。だから退院できるんでしょ、先生。」白石はやけにかくしゃくと動き出し、とっととベッドから立ち上がった。 「ええ、それも含めてね、お話ししますんで。」医師は白石とその妻、それからナースと研修医らしき若い白衣姿の青年をお供に引き連れて病室を出て行った。  一行の気配がなくなったのを確かめてから、宏樹が「退院じゃないのかもな。」と呟いた。 「え、でも看護師さんは退院できますって言ってた。」 「この病院は、ってことかも。たとえば、もっと大きな病院への転院が必要だったり。」 「そんな……。」 「分かんないけどさ。」 「何度も入退院繰り返してるんだ、白石さん。」高橋が割って入ってきた。「次に何かあったら、腎移植も視野に入れないといけないって言われてたそうだよ。」 「そう……なんですか。」和樹は弱々しく答えた。 「でも、白石さんタフだし。大丈夫だよ。」高橋はそうも言った。医師でもない高橋の言葉など気休めに過ぎないことは和樹にも分かった。だが、急に弱気になった自分を見て、少しでもフォローの言葉をかけてあげようという気遣いなのも分かっている。  だから和樹は「そうですよね。」と笑ってみせた。  しばらくして戻ってきた白石夫妻は言葉少なだったが、病室を去る時には「やっと帰れるよ。高橋さん、いろいろ世話になったね。おたくも明日退院だろ、お互いあんまり無理せず行きましょうや。」と高橋に明るく声を掛けた。和樹にも「入れ違いになったね。なぁに、あんたは若いからすぐ治る。」と言った。「それからお兄さんもね、なんか気ぃ使わせちまって悪かったね。学校の先生だってな。生徒はビシバシ鍛えてやんな。でないと、俺みたいになっちゃうよ。」最後は宏樹にそう言ってハハハと笑い、出て行った。  「無事に退院」なのか「大病院への転院」なのか分からずじまいだったが、去り際に見せたあの明るく元気そうな姿が白石自身が「そう見せたい自分」なのだとしたら、それを信じて、その姿を覚えておこうと和樹は思った。 「なんか静かになっちゃうなあ。」と和樹が言っていると、早速病院のスタッフがやってきて、白石のベッド回りを片づけ始めた。  せわしく立ち回るスタッフは、狭い中で和樹のベッドにぶつからないようにと気遣いながら作業するのも大変そうだ。宏樹が「休憩室行くか。」と言うと和樹はそれに応じて一緒に病室を出た。  午前中とは違い、休憩室はおじいちゃんのお見舞いに来た娘夫婦と孫、といった雰囲気の多人数のグループで賑わっていた。辛うじて空いた椅子を見つけ、隅の方に移動して2人並んで座った。 「ジュースとかコーヒーとか、もう飲んでいいんだっけ?」宏樹は自動販売機を見て言う。 「どうなんだろう。特に何も言われてない。」 「一応、刺激の少なそうな奴にしておくか。」宏樹はグレープジュースと温かいほうじ茶を買った。「どっちがいい?」と和樹に尋ねる。和樹はほうじ茶を選んだ。 「母さんは元気?」今更ながら和樹は言った。 「ああ、親父もな。」 「瑞穂ちゃんの結婚式に行くって言ってたな。随分会ってないけど、結婚するような年だったっけ。」 「俺のひとつ上だから、23、4か? 今時にしちゃ早いと思ったら、やっぱり妊娠してたらしい。」 「へえ。デキ婚だか授かり婚だか知らないけど、まあ、珍しくもないし、いいんじゃないの。」 「そうだな。おふくろはプリプリ怒ってたけど。とばっちりで、俺はそんなみっともないことするなって言われたよ。」宏樹は苦笑する。 「みっともない、かぁ。」恵がそう言うのは「結婚してから妊娠・出産という順番ではないから」だろう。恵にとってはそういった順番が「常識」であり「普通」なのだろう。恵の中には、多数派の、王道の、伝統的な根拠のあるものと、それ以外のものがあって、前者は「普通」だが、後者は「普通ではないもの」「みっともないこと」なのだろう。 「でもさ、瑞穂ちゃんのウェディングドレス姿なんか見たら、うちのおふくろが真っ先に感動して泣きだしたりしそう。瑞穂ちゃんの母親でもなければ、血縁ですらないのにさ。」瑞穂は父方の従姉にあたるので、恵とは血縁関係はない。そして、宏樹のこういった言葉は、和樹への慰めであることは明らかだった。

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