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第555話 白い壁と青い窓 (18)

「そうか。」宏樹は頷き、そしてもう一度「そうか。」と呟いた。二度目のそれは自分に言い聞かせるかのように。  和樹の病室で片付けをしていたスタッフが出てくるのが見えて、どちらからともなく立ち上がり、病室に戻った。  宏樹は和樹の下着とタオル程度の洗濯物を預かり、それから何か不足なものはないかと聞いた。和樹は何か本が欲しい、と答えた。1人で過ごす時間、テレビとスマホだけでは間が持たない気がしたからだ。 「じゃあ、これ読むか?」と宏樹は自分のバッグから文庫本を出した。 「漱石。」 「ああ。授業でやるから、もう一度ちゃんと読みなおそうと思って持ってきたけど、読むなら置いていく。」 「……まあ、いいか。」 「なんだよ、その言い方。嫌なら別の持ってくるよ。おまえは流行のが好きだもんな。映画化されるような、話題作。」 「そっちこそ馬鹿にした言い方だなぁ。話題作だって知っておかなくちゃ、若者の気持ちに寄り添えないんじゃないの、センセ。」 「まあ、そうだけど。」宏樹はいやいや肯定した。「あ、そうだ。」 「何?」 「おまえのさ、歯ブラシ。ここに持ってきたのは旅行用のやつ、新しいの買って入れておいたけど、それじゃなくて部屋に置いてあるほうの。あれ、2本あるけど、両方使ってんの?」 「えっ。」そのうちの1本は涼矢の歯ブラシだ。半年以上前、初めて部屋に来た時に捨ててくれと言われて捨てられなかった。秋に来た時も結局それを念入りに洗って使って、そして、そのままだ。「なんでそんなこと聞くの。」 「だっておまえ、洗面所も風呂場もえらい汚れてたからさ、捨てていいなら掃除に使おうかと思って。」  涼矢もそんなことを言っていた。掃除にでも使えばいい、と。 「使ってる。まだ捨てない。」和樹は嘘をついた。 「2本共?」と言って、宏樹はようやく気が付いた様子だ。「1本は、涼矢のか。」 「るせ。」和樹は布団をかぶり、宏樹に背を向ける。ただひたすら恥ずかしい。それだけだ。 「そんなにしょっちゅう来るのか?」 「来ねえよ。もう、いいだろ、そんな話。使いたきゃ使っていいよ、ブルーのほう。……って、両方ブルーか。」和樹の言っているのは「自分のほう」だった。そちらは既に何回か買い替えていて思い入れなどあるはずもない。けれど「涼矢のほう」は、なんとなく、初めてあの部屋の来た時の記念品のように思えている。それにしても、買い替える時、自分は何故わざわざ同色を買い続けていたのか。紛らわしいのに。グリーンでもイエローでも良かったのに。 「そう、2本共ブルーで。」  もしどちらかがピンクなら、宏樹だって聞くまでもなくピンと来たはずだ、と和樹は思った。そんな些細なことに苦々しい気分になってしまう。その苦々しさにブルーを買い続けていた理由を見つける。  ブルーとピンクの歯ブラシなら同棲しているカップルのよう。それが「普通」だから。でも俺たちはそうじゃない。そして、それでいいと思っている。信じている。「普通」に見せかけるために、自分で選んだブルーを変える必要もない。グリーンでもイエローでもダメなのだ。  馬鹿みたいなこだわりだと思う。そして、この瞬間までそんなことにこだわっていた自分に気付かずにいた。 「掃除は退院してから自分でやるから、放っとけよ。」結局和樹はそう言った。 「絶対やれよ。」宏樹は呆れたように言った。 「あっ、そうだ。」和樹は話題を変える。 「何だよ。」 「なんか、ふりかけ的なの持ってきて。病院食、薄味すぎて。」 「塩分も計算されてるんじゃないのか?」 「ちょっとなら大丈夫だろ。」 「分かったよ。」  そんな会話をして、宏樹はこの日、和樹の部屋に帰って行った。  宏樹と入れ違うように新しい患者が入ってきた。白石のいたベッドかと思ったら、もともと空いていた窓際のベッドで、隣は相変わらず空きベッドだった。「新入り」の患者は50絡みの男で、入院初日は特に会話をすることもなかった。  更に翌日には高橋がいたベッドに別の患者が入ってきた。これで和樹が入院した時と同じく、4人部屋のうち3つのベッドが埋まった状態だ。新入りが来るたびにその付き添いの人に菓子を渡した。付き添いはどちらも奥さんのようだった。  そうしているうちに、和樹の傷跡を保護していたガーゼが完全に外された。その翌日には薬も減らされた。そうして和樹は、予定通りの金曜日に退院の運びとなった。  最後の診察を終えると、宏樹と一緒に会計に行く。待ち時間を利用して、宏樹は書類受付窓口と書いてあるカウンターに行った。和樹も一緒に行くべきか迷ったが、会計で呼ばれるかもしれないと思い、そのままソファにいた。だが、呼ばれるより宏樹が戻ってくるほうが先だった。 「1週間後に出来上がったら電話するから、そしたら取りに来てくださいって。おまえの携帯の番号言ってあるから。」 「分かった。」 「診断書って結構高いんだな。一応、金を先に渡しておくわ。書類受け取る時に支払いだって言ってたから。で、受け取ったらうちに郵送してくれ。あとはこっちでやる。」 「分かった。」  ポーンと音が鳴り、会計窓口の上部にある電光掲示板に番号が表示された。和樹の番号があった。

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