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第556話 白い壁と青い窓 (19)

 精算を済ませて、2人は外に出た。快晴だ。バス停まで来ると和樹は振り返り、建物を見上げた。来た時は腹部を庇いながらだったから、こんな風に見上げることはなかった。自分のいた病室のあたりを確認する。下から見ると、窓越しに天井だけが見えた。白い天井。壁も白かった。病院は大抵どこもそんなものだろうけれど。病室のベッドに横たわったまま窓のほうに目をやると、空だけが見えた。今日のように晴れていれば、白い壁にそこだけ四角く切り取られたような青空が。今になってそんな光景を感傷的に思い出すが、中にいた時には何の感慨もなかった。ただ一刻も早く退院したい、日常に戻りたいと思っただけだった。そして、帰ってきたよ、元気だよと、涼矢に伝えたいと思っていた。  だから、バスの中で、退院したよ、とメッセージを送った。念のため、今はバスの中にいることも伝えた。そうでないと涼矢がメッセージを見るなり電話をかけてきそうな気がしたからだ。 「確かに、それは友達にはやらないよな。」と宏樹が呟いた。 「何が?」 「いちいち退院したとか、バスの中だとか、実況中継みたいに。」 「見るなよ、ひとの画面。」 「いやでも見えるだろうが。」  言い返そうとした時に、涼矢からの返事が来る。退院おめでとう、の後に花束の絵文字。そして、落ち着いたらまた連絡して、と。和樹はその画面を宏樹から隠すようにしたが、一歩遅かったようだ。 「ハートマークがついてなかったな。」と宏樹が笑った。 「うっせえな、あいつがそんなもんつけるかよ。」 「バスの中だから静かにしろよ。……おまえ、座らなくて平気か。」  文句を言おうとすればそんな優しいことを言われ、和樹は拍子抜けする。「平気だよ。」  1週間ぶりに自分の部屋に戻ると、和樹はいつもの習慣で手を洗い、うがいをした。 「おお、偉いな。」 「塾でうるさく言われてて。」和樹はタオルで口元を拭う。「あ、塾にも連絡しなきゃ。」 「すぐの復帰はやめとけよ。ちゃんと数日様子見て、体調万全になってから。」 「分かってる。」和樹は涼矢と塾、どちらに先に電話をすべきか一瞬迷ったが、宏樹が帰ってくれないことには涼矢とまともに話せる気がしない。それで、まずは塾に電話をかけた。電話口に出たのは菊池で、生徒が合格した時と同じぐらいの喜びようだ。それから早坂に替わってもらうと、和樹は今回の件を謝罪した。 「すみません、ご迷惑をおかけしました。」 ――もう、大丈夫なんですか? 「はい。腹腔鏡手術で、しかも1ヶ所だけなんです、穴開けるの。だから、治りも早いみたいです。」 ――それは良かったです。医学も進歩してますね。 「はい。……それで、あの、復帰というか……。」 ――3月も終わりですし、切りのいいところで、4月からにしましょうか。1週間空きますが、どうですか?」 「それでお願いします。すみません、本当に。講習も途中で抜ける形になってしまって。森川先生にも。」 ――大丈夫ですよ。小嶋先生も今はフルで入れますし、森川先生は急な代打にも慣れていますから。もちろん都倉先生にはまだいていただかないと困るんですが。シフトはまた調整してお知らせします。  そうだった。自分は介護でフルに働けない小嶋のために入ったのだ。介護の必要がなくなった今、自分がいなくても塾は回せる。和樹は淋しいような悔しいような思いでそのことを思い出した。だが、それすらも見透かされて、先回りでフォローの言葉まで言われてしまうと、恥ずかしく、情けない思いもした。  電話を終え、宏樹には4月から復帰する、とだけ伝えた。 「で、愛しの恋人には?」  からかう宏樹を無視して、和樹は入院セットを荷解きし、自分の部屋に戻すものと、宏樹に持ち帰ってもらうものとを仕分けはじめた。 「それ、持ち帰っていいのか? 置いておけばいいのに。」宏樹がそう指摘したのは、赤いチェックのパジャマだ。 「実家に戻った時に着るから。」 「ああ、そうか。」 「それに、可愛すぎるだろ、これ。」 「そうかな。」 「そうだよ。」 「俺が着たらおかしいだろうが、カズが着る分には別にいいと思うけどなぁ。」  兄貴の中で俺はいったいどれだけこどもっぽいと思われているんだ、と和樹は思う。 「とにかく、持って帰って。」和樹は赤チェックのパジャマをバッグに押し込んだ。そう言えば涼矢にあげた赤いチェックのトランクスはどうなったのだろうか、などと思う。「兄貴、いつ帰るの?」 「おいおい、用事が済んだら早く帰れってか。」 「そういうつもりじゃないよ。」 「昼ごはん食べたら帰るよ。昼と言っても、もう、こんな時間か。」宏樹は腕時計を見た。午前中の回診で最終的な退院の許可が出て、昼食は食べずに退院したというのに、既に3時近くになっていた。 「昼飯、どうすんの。」 「今日はどうなるか分からなかったから、ごはんは炊いてないんだよなあ。コンビニで何か買ってこようか。」 「うん。」  宏樹はフットワークも軽く出て行った。コンビニ弁当か。涼矢なら決して選ばないだろう。涼矢のことを考えたらいてもたってもいられず、電話をかけた。

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