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第564話 まだあげ初めし (4)
去年の今頃は自分が新入生だった。大学も、東京の街も、何もかもが目新しくてどこにピントを合わせればいいか分からないほどだった。今までの世界が一変して見えた。すべてがキラキラしている気もしたし、すべてが荒んでいるようにも見えた。やっぱりすごいと思うこともあれば、なんだ地元と変わらない、もしくは逆に地元のほうが合理的だと思うこともあった。共通点も相違点も、ここが東京だからなのか大学だからなのかも分からないまま、押し流されてきてしまった。
それでも1年も経てばさすがに慣れた。そう思っていた、5分前までは。口を滑らせたかのような勢いで、渡辺に伝えてしまった。そして、あっさりとそれを許容してもらえた。その途端、5分前と何も変わっていないはずの世界がまた、違って見えた。涼矢のことを大学の友達には言えない。それをそこまでプレッシャーに思っている自覚はなかった。けれど、言ってしまった後の心の軽さに、和樹は自分がいかにそれを負担に思っていたのかを知った。
――でもそれが、涼矢が俺とつきあうまでの、18年間だったんだ。あいつはずっと、そんな重荷を一人で背負ってたんだ。
そう思うと、胸が熱くなる。同時に渡辺にも感謝したい気持ちでいっぱいになった。涼矢も柳瀬にそんなことを言っていたっけ、と思い出す。何も変わらないでいてくれる友達。自分よりも、涼矢にそういう存在がいてくれることに、改めて安堵した。
――考えてみりゃ、哲だってその1人だよな。
涼矢が大学で同性愛者であることを隠さずにいられるのは、哲を抜きにしては考えられないはずだ。いろいろ問題はあっても哲を突き放せないのは、涼矢にとって初めての"同志"だからだろう。いや、初めてというより"唯一の"と言ったっていいかもしれない。俺は涼矢が好きだけど、同性愛者として生きてきたわけじゃない。本当の意味でその「重荷」を理解できるのは哲のほうだろう。留学するとか言ってたけど、涼矢は本当にそれで大丈夫なんだろうか。
――いや、違う。
和樹は自分に言い聞かせる。
――大丈夫にしてやるのは俺だろ。
和樹はその日の夕方も塾に向かった。塾のほうは、一足早く新学年で動き出している。和樹は、前年度から持ちあがる形で、中1・中2クラスをメインに受け持つことになっていた。
「都倉先生、こんばんは。」今日もまた元気な声がかかる。最近は声だけで誰か判別できるようになった。
「お、明生。こんばんは。」和樹はスイミングスクールの頃から見ている塩谷明生を見た。引っ込み思案な男の子だが、中学生になってからは随分とハキハキしゃべるようになったと思う。声変わり前の、まだ少し高めの声にも張りがある。
「ねえ、先生ってさ、中学の時……。」明生が何やら話しかけてきたと言うのに、後ろから誰かが割り込んできた。
「とーくーらーせーんせっ。」中3の女子だ。塾で最強なのは、この中3の女子だ。同学年の男子でも太刀打ちできない。その中でもリーダー格の彼女はさながら女王様だ。明生などかなうはずもない。「漢検ってどうやって勉強したらいい? 受験に有利なんでしょ?」しかも受験の話題を持ち出されては、どうしたって相手せざるを得ない。それが受け持ちでもない和樹に話しかける口実なのが明白だとしても。
明生がすごすごと自分の教室に向かうのを視界の端でとらえながら、和樹は漢検の問題集を棚から出した。
こんな時には明生に悪いことをした気にもなるのだけれど、誰に邪魔されることなく会話できる機会だって当然あった。そして、そんな明生が振ってくる話題もまた、他愛もないものだった。それが分かっていたから、やはり、受験生の漢検の相談を優先するのは正しいはずだった。……それにしても。
和樹は特に4月に入ってから、やたらと明生の視線を感じていた。授業中、講師に注目するのはもちろん悪いことではない。だが、それを差し引いても気になるほどの熱い視線だ。板書をしている時ですら、背中に視線を感じる。授業以外の時でも、たとえば塾に現れた時。帰る時。入退室のためのIDカードをリーダーにかざしながら、目は和樹の姿を探している。和樹が何らかの用事で席を外していると、本棚の過去問題集の背表紙を眺めたりして時間を調整しているらしく、所定の位置に戻ってくるまで帰ろうとしない。
「中1の彼、都倉先生のことが好きみたいですね。」そう言ったのは久家だ。周りに誰もいないタイミングで言ってくれたのは久家なりの配慮なのだろう。
「やっぱり、そうなんでしょうか。」
「だと思いますよ。」
「その好きというのは、憧れや敬意とは違う感情、でしょうか。」
「さあ、それはなんとも言えませんね。合わさったものかもしれません。ただ、こう言うと冷たく聞こえるだろうけれど、あまり大袈裟にとらえず、淡々としていればいいと思います。他の生徒と同じように。」
「他の子も気づきますかね。もし、それで塩谷くんが変にからかわれたりしたら。」
「それは今のところ心配ないと思います。あの子はとても上手に隠していますから。」
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