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第567話 まだあげ初めし (7)
「留学先もそうだといいな。」
「実際向こう行ったら、そんなことで悩んでる暇ないんじゃん?」哲はスマホで時刻を確認した。「あ、俺、そろそろ行かなくちゃ。」
「そうだ、哲。」
「ん?」
「千佳たちも呼んだら? 鍋。英語もできそうだし。」
哲は一瞬真顔になった後で、すぐにニヤリと笑った。「呼ばない。」
「なんで。」
「田崎が俺に集中してくれなくなるから。」
「は?」
「じゃ、また、土曜日に。」哲は言うだけ言って、立ち去って行った。
何がきっかけか分からないが、ようやくごく普通の「友達らしい」会話ができるようになった、と思っていた。その最後の最後に、引っかかる言葉を残していった哲を、涼矢は見送った。
その意味を考えることを、涼矢は早々に放棄した。哲の言動に振り回されるのはもうたくさんだ。外国人が宿泊するゲストハウスで、鍋パーティ。自分だって英会話レッスンを始めて、少しはその成果を試してみたい。いい機会だ。それだけのことだ。そう自分に言い聞かせて、それ以上のことは考えまいとした。
涼矢が帰宅すると、珍しく佐江子がいた。
「早いね。」
「打ち合わせして、直帰だったから。」
「そう。」涼矢は自動的に2人分の夕食を作る算段を始める。
「あ、そうそう、ゴールデンウィークは何か予定ある?」佐江子は立ったまま缶ビールを片手に言った。顔は涼矢ではなく、壁のカレンダーを向いている。
「ない。……ていうか、普通に講義ある。」
「あれ、そうだったっけ。」
「うん。」
「お父さんが帰ってくるかも。連休の後半ね。3日か、4日のあたり。」5月のその頃といったら、もう2週間もない。
「え。」
「何よ、不満そうね。」
「別にそういうわけじゃないけど。」
「私は休みなのよ。だからね、どっか小旅行でも行こうかと思って。今からじゃ行楽地は無理だろうから、ひなびた温泉宿にでも。」
「2人で行って来れば。」
「あなたに運転手やらせようと思ったのに。でもま、学校ならしょうがないね。」
「休みでも行かないよ。」
「旅行につられる年でもないか。仕方ない、2人で行こうかな。」
「2人で旅行なんかしたことあるの。」
「あるよ、そりゃ。まぁ、仕事半分だったけど。まともな旅行は新婚旅行ぐらいかなぁ。」
「結婚式してないんじゃなかったの。」以前、そんなことを聞いた覚えがあった。そのこともまた、佐江子の実家の心証を悪くしていた一因でもあった。
「結婚式も披露宴もしてないよ。婚姻届も出してないぐらいなんだからね。でも、旅行だけは行ったのよね。えーと、あれは何年前だっけ。」佐江子を指を折って数える。「うわ、やだ、25年よ。銀婚式だよ、私と田崎さん。」
「それはそれは。じゃあ、ちょうどいいじゃない、2人で銀婚旅行。」
「それだったらもっとゴージャスな旅行……そうねぇ、世界一周の船旅がいいな。でも、そんなに休みとれないし、金婚式のお楽しみね。」
「父さんは嫌がりそうだけど。インドア派だろ、基本。」
「そうなのよねえ。今回もきっと家でのんびりしたいんだと思うわ。だからあんたをダシに引っ張り出そうと思ったのに、作戦失敗。」
「そんなことだろうと思ったよ。」涼矢は苦笑しつつ、夕食の準備に取り掛かった。
夜遅くになって、涼矢は和樹に電話した。挨拶代わりのちょっとした雑談の後に、早速切り出した。
「ゴールデンウィーク、忙しい?」
――大学あるよ。おまえんところもだろ?
「うん。でも、あんまり重要な講義はないから、ちょっとそっち行こうかと思って。5月に入ってからの、3日か、4日か、そのあたり。昼間、おまえは大学行ってもいいからさ。」
――来るのは別にいいけど、新幹線も道路も混んでるだろ。
「そのへんはなんとかする。」
――じゃあ、どうぞ。
「ん。」
父親に会うのがどうしても嫌だというわけではないが、なんとなく顔を合わせたくなかった。正月の時の叔父の話は聞けて良かったと思っているし、ひとり息子である自分が同性愛者だということを理解してくれているのもありがたい。和樹のことも好印象のようだ。総じて会いたくない要素はないはずなのだが、どうしても気が乗らない。それはきっと、自分がまだ何者にもなっていないせいだ、と涼矢は思った。自分ひとりの食い扶持も稼げない。和樹とつきあっていくための費用だって結局のところ親がかりだ。和樹のことが好きで、自分のパートナーだと胸を張れるだけのことをまだ成していない。
だから気まずい。どうにも逃げたくなり、和樹に会いに行こうと思った。そのための費用だって、親からもらったものだけれど。
――何かあった?
つい黙りこくってしまい、和樹が気付いた。
「いや、なんでもない。」
――哲?
「違うよ。あいつとは……なんだろ、すごく普通だよ。普通の友達みたい。」
――"みたい"ってなんだよ。友達だろ。
「留学準備も順調で、バイトもうまくいってて、やけに落ち着いてる。」
――そう。それなら、心置きなく、送り出せるな?
「ああ。」哲自身も言っていた。俺の夢見が悪くならないよう、ちゃんと真面目に楽しくやってるところを見てほしい、と。
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