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第569話 まだあげ初めし (9)
――むかつくけどさ。
和樹は笑った。
「ああ、むかつくな。……けど、確かに、あいつがいてくれて助かったと思うことはあるな。」
――うん。だからさ、そういう存在を、哲以外にも。
「努力する。」
――東京来た時に聞くからな? どんな努力をしましたか?って。
「レポートでも提出するか?」
――ははっ。
そんな会話をして、電話を切った。
その数日後の土曜日。涼矢は約束通り、哲のアルバイト先であるゲストハウスに向かった。大学からは徒歩でも行ける距離だが、帰りのことを考えて、今日は大学自体に車で乗りつけた。哲を乗せていくことはしなかった。幸いキャンパスで顔を合わせることもなかった。講義は午後の早い時間に終わってしまったから、大学図書館で時間をつぶして、実際にゲストハウスに到着したのは5時少し前だった。
ゲストハウスの外観は、一見しては、ホテルというよりもオフィスビルのようだった。中に入ると、簡素なフロントがある。声を掛けようとしたけれど誰もいない。カウンターにあった受付ベルを鳴らしてみた。
その音が聞こえたのか、偶然なのか、建物の奥から哲が現れた。
「ああ、こっち。」とだけ哲は言い、くるりと背中を見せた。哲の後を着いていくと、廊下のつきあたりにたどりつき、曲がるとまた外に出られるガラス戸がある。ガラス越しに庭が見えた。「今日は天気いいから、外で食べようってことになって。」
「ああ、そうなんだ。」
庭には大きな木製のテーブルがあった。
「来て早々悪いけど、その椅子を並べてくれない?」
哲がスタッキングされたままのガーデンチェアを指差す。涼矢は頷いて椅子を外してはテーブルのところに並べた。8脚ほど置いたところで、テーブルとのバランス的には一杯だ。「もっと?」と哲に尋ねた。
「あっち側のお誕生席にも2つ。そしたら、10人分だろ?」
「うん。」
「じゃあ、それで。たぶん10人ぐらいだから、今日の参加者。」
「分かった。」涼矢は2脚追加した。
哲はプラスチック製の皿やコップをテーブルに置いた。
「それも並べる?」
「いや、これは各自で取ってもらうから。あと、厨房のほう手伝って。こっち。」
哲がまた建物内に入っていき、涼矢はそれに続く。厨房は2階なのだと階段を上った。2階には広い部屋がひとつと、それに連なるオープンキッチンがあった。部屋のほうには電子レンジとトースター、電気ポットがいくつも並んでいる。トーストやカップラーメンだけで済ませるような場合は、キッチンまで入らずとも事足りるということだろう。
「食事の提供はしないの?」
「基本的にはしない。朝だけ食パンとジャムとバターをここに出して、それは宿泊客は無料で食べていいんだけど、トーストするのは自分たちでね。あとは、ここは共同炊事場で、宿泊客は勝手に利用していいんで、食材だけ買ってきて作るとか。でも、ほとんどの人は外食するかな。だからこんなのも作ってある。」
哲が示したのは手書き風の近隣の地図だ。寿司や焼き肉といった飲食店のほか、スーパーマーケットやドラッグストアの場所も書いてある。説明は英語だ。
キッチンに入ると六三四がいた。
「あ、久しぶり。」と涼矢が言った。六三四は無言で会釈だけ返してきた。
「何やればいい?」哲のほうが六三四に尋ねる。ここでは六三四のほうが立場が上のようだ。
「それ、ラップして下に持って行って。」既に切り揃えられた食材のバットを六三四が顎で示した。
「じゃあ。」と涼矢が手を出すと、六三四がすかさず言った。
「あんたはこっち手伝って。そっちで手、洗ってきて。石鹸使ってちゃんと。」
「あ、ああ。」
「俺は料理できないからなぁ。」と哲が言い、言われた食材を手にキッチンを出て行った。
手を洗い終わった涼矢は、六三四の指示に従い、皮むきや下茹でなどを手伝う。六三四はしいたけに花型の切れ込みを入れたりしている。
「最近、店に来ないな。」と六三四が言った。
「ああ、ちょっと……忙しくて。」涼矢は言い訳するように言った。
「親父が心配してた。」
「アリスさんが?」
「まぁ、親父はいつでも他人の心配ばっかりしてるからな。」
「そのうち、顔出すよ。」
「あの兄さんは来てるよ。」
「え?」
「あんたが連れてきた奴の、兄貴っての。」
「ああ、宏樹さん。」
「……俺、物心ついた時には、親父はもうあんなだったから、ラグビーやってた頃って知らないんだけどさ。あの人があんまりすごかったすごかったって言うから、この間、家族みんなで昔の試合の録画を見て。」
「うん。どうだった?」
「すごかった。」
「そうか。」
「あのまんまでいてくれたら、俺もグレなかったのにな。」
涼矢の手が止まった。「そうかもしれないけど、でも。」
「説教は要らねえよ。」
「説教なんかしないよ。アリスさん、確かによその父親とは違ってるし、そのせいでおまえが嫌な思いしたのは想像できる。……けど、ああいう人だから、おまえは戻ってこられたんじゃないの。おまえんちの事情なんかろくに知らないから、無責任な言葉だけど。」
六三四はふん、と鼻を鳴らした。「おまえまであの兄貴に似てるな。彼氏と仲良いとそんなところまで似るのか。」
彼氏、と言われて涼矢はドキッとする。だが、考えてみれば六三四は和樹との関係を知っててもおかしくない。
「次は何をしたらよろしいでしょうかぁ。」哲が戻ってきて、わざとらしくそんなことを言った。
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