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第570話 まだあげ初めし (10)
やがて日も暮れてくると宿泊客たちも庭に集まってきた。庭に照明はないが、庭に面した壁はほとんどがガラス張りだから、建物内の照明で充分明るい。
昼間は半袖でもいいぐらいの暑さだったけれど、日が落ちると肌寒い。そんな中でも、過剰に露出したグラマラスな女性もいる。涼矢が挨拶がてら尋ねてみれば、アメリカから来たらしい。
一斉に乾杯するでもなく、ゆるゆるとパーティーは始まった。飲み物はセルフサービス。鍋に食材を入れ、頃合いを見計らって取り分けてやったりするのは六三四だ。鍋のほかにはサラダやハムやチーズも並んでいたけれど、特に凝った料理はない。見慣れない文字のスナックが袋のまま置いてあるのは、タイから来たというゲストが母国の菓子を差し入れたものらしい。
哲はひたすら歓談している。時折涼矢を呼んで、会話に混ぜてくれる。マイフレンド、と紹介されるたびに、涼矢は和樹と哲が初めて顔を合わせた焼肉屋のことを思い出し、倉田さんは元気だろうか、などと思う。
「ねえ、あなたの名前の漢字はどんな意味?」と言い出したのは、例の露出の激しいアメリカ人女性だ。ビールを飲んでいたようで、いささか酔っている。ゲストハウス側としてはソフトドリンクしか用意しておらず、アルコールは各自が持ってきたものしかないはずだから、彼女も自分が買ってきたビールを飲んでいるのだろう。
とっさに質問の意味が分からず黙っていると、哲が補足してくれた。「彼女、漢字マニアでさ。日本人を見ると、名前と、その漢字の意味を聞くんだ。こんな酔っ払いだけど向こうじゃ弁護士。俺たちの先輩だよ。」それから、今度は逆にその女性に向かって、涼矢も自分も弁護士を目指しているのだ、と説明した。
それを聞いてますます戸惑いつつも、涼矢は回答を考える。「ええと。Cool arrow……じゃわけわかんないか。」直訳しただけでは難しい。涼矢は苦心して、矢が的の中心を貫くものであることから、物事の中心、コアの部分を目指して進めという親の願いがこめられているのだ、と説明した。
「まあ、素敵。」と女性は言った。「クールな判断。コアを目指して進むこと。それはつまり正義ね。弁護士には最適な名前だわ。フィロソフィとジャスティス、あなたたちはいいコンビね。」
今度は「いいコンビ」の意味が汲み取れないでいると、また哲が補足する。
「俺の名前は哲学 って意味だって言ったから。」
哲の説明を聞かずに、酔っぱらっている女性は語り出す。「私はフィラデルフィアから来たの。フィロアデルフォス、ギリシャ語で兄弟愛って意味よ。正義、哲学、兄弟愛。ねえ、それが世界に平和をもたらすと思わない?」女性はくねくねと体を揺らし、相当酔っぱらっているようだ。ただでさえ露わな胸元がさらに強調される。
「ケリー、飲み過ぎだよ。」哲が女性のグラスを取り上げた。
「あなたたちは兄弟みたい。……ううん、違うな。恋人? そうでしょう?」ケリーと呼ばれた女性はそう言ってけらけらと笑った。
「違うよ、ケリー。ただの友達。」哲は答える。
「つきあっちゃえばいいのに。とても似合ってる。……私にもいたのよ、可愛い彼女が。でも、振られたの。日本に来たのは傷心旅行なの。日本の女の子はみんな可愛いけど、あなたたちもすごく可愛い。」
「俺も振られたんだよ、彼に。」哲も笑って涼矢を指差した。
本場の「Oh my God」という言葉が聞こえたかと思うと、またケリーは笑った。酔っぱらった勢いで笑顔のまま涼矢をバンバン叩きながら、「こんな可愛いフィロソフィをなんで振ったのよ。」と言う。
「恋人がいる。」と涼矢は簡単に答えた。素っ気ない答えは、英語力のなさのせいもあったが、たとえ日本語だとしても大差ないだろう。
「その人、今日はここに来てないの?」
「来てない。遠くにいる。」
「恋人なら一緒にいなくちゃ。」
どう答えればいいのだろう。涼矢は迷った挙句に「約束はした。」と言った。
「何の?」
「結婚。」
「えっ。」と哲が振り向いた。「まじで?」と、これは日本語だ。
「うん。」
「日本は同性婚はできないって聞いてたけど。」とケリーが言った。
哲は、その通りだが、一部の権利は自治体によっては認められているのだ、と説明した。
「そう。一部の権利だけなんておかしな話だと思うけど、愛し合うパートナーがいることは素晴らしいわ。リオヤの幸せを祈るわ。」ケリーは「リョウヤ」をうまく発音できずに「リオヤ」と呼んだ。
「そう言えば。」涼矢はケリーに言った。「恋人の名前には、平和って意味の漢字が入ってる。」
「まあ。」ケリーは目を丸くしつつも微笑むと、涼矢の頬に軽くキスをした。「あなたの正義は既に平和と共にあるのね。祝福するわ。お幸せに。」
鍋パーティは10時近くまで続き、後片付けまで済ませた頃には、そこから更に1時間ほどが経過していた。六三四は途中で帰ったらしく、片付けは哲と、後から現れたオーナーと一緒にこなした。オーナーはどこにでもいる素朴な感じの中年女性で、陽気でタフな男性を想像していた涼矢は驚いたけれど、するりと場になじむ様は一種の特殊技能のようで、こういう人ならどんな宿泊客ともすぐ仲良くなれそうだと思い、自分勝手に納得した。
「泊まって行けば。空室あるし、手伝ってくれたからタダで良いよ。あ、ベッドメークだけはしてもらうけど。」オーナーは気さくにそんなことを言ってくれたが、涼矢は「車で来たので帰ります。」と辞退した。哲もオーナーも引き留めることはしなかった。
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