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第584話 まだあげ初めし (24)

 一人取り残された涼矢は、食器を洗おうと立ち上がる。だが、気が変わって、ベッドに腰掛けた。和樹が帰ってくるまで3時間ほどもある。そんなに急いで皿洗いをする必要はない。  人が死んでも、腹は減る。和樹の言葉を心の中で繰り返した。その通りだが、自分は空腹感を感じなくなる時がある。和樹に着信拒否をされた時は明らかにメンタルの不調からの食欲不振だったけれど、そういった理由がなくても、佐江子が不在の日などは食事するのを忘れてしまったりする。  そういう時の自分は、死の近くにいるような気がする。死にたい、のではない。夢うつつのようなぼんやりとした世界にいて、生きているのか死んでいるのか曖昧になる感覚だ。それを最初に自覚したのは渉先生の自死の後。自分の実体がこの世にないような浮遊感。魂が戻ってきたのはたぶん、佐江子からの「何かされなかったか?」という、あの問いかけがきっかけだ。お母さんはどうしてそんなことを聞くんだろうと思い、それを考えているうちに、この世に戻れた気がする。  あの時は1ヶ月ほどもふわふわとしていたけれど、その後はそんなに長いこと「ふわふわ」はしていない。成長に伴う体の変化や学校生活や、とにかくいろいろな刺激が次から次へとあったので、ぼんやりする暇がなかったのだ。だから夏休みの数日など、日常から切り離された時にだけ、その「ふわふわ」は訪れるようになった。それも和樹と出会ってからはほとんどなくなったけれど、気を抜いたらリンゴひとつかじっただけで1日が終わったことはあった。  哲は違った。哲は常に飢えていた。比喩的な意味でも、現実的な意味でも、彼はいつでも飢餓状態だった。あれだけの知識がありながら、食事のマナーは悪く、食べられる時はガツガツと食い散らかしていた。育ちが悪いのだと自分でも言っていたけれど、きっと彼は自分の欠落を何かで満たさずにはいられなかったのだろう、と思う。性であれ、食であれ。  和樹は、人間、食べられれば大丈夫だと言う。食べているのを見ればホッとするのだと言う。――俺の「ふわふわ」も、哲の飢餓も、きっと和樹には理解できないのだろう。でも、それでいいんだ。俺は和樹にすら「理解」なんか求めちゃいない。涼矢がメシ食ってるとホッとする、そんな風に言ってもらえるだけでいい。そしたら俺はメシを食う目的ができる。生きていける。ふわふわと実体のない俺が、人の形になれる。 「支離滅裂だな。」頭の中に飛び交うそれらの言葉を、そんな言葉でひとまとめにして、涼矢は立ち上がり、皿洗いを始めた。  それを終えると、バスルームのほうをぼんやりと見やった。 ――和樹のアレ、本気かな。そしたら今日は、俺が"準備"しておくべきなんだろうな。  以前は。片想いだった頃の自慰は、挿入される側の想像もしていた。そちらのほうが多いぐらいだった。けれど、最近はほぼ"する側"のことしか思い浮かべない。和樹がそうしたいならどちらでもいいのだけれど、どう見ても和樹は"される側"のほうが気持ちよさそうだ。 「まぁ、いっか。」涼矢はそうひとりごちて、バスルームに入っていった。  和樹が帰宅したのは予想よりは少し早く22時半ほどだった。自習室を22時に閉めるから、それまではどうしても帰れないのだと言う。普段は生徒を帰した後、片付けをして翌日の準備をして、と、やっているうちに時間が過ぎて、帰宅は23時近くになる。 「今日は自習室の利用がなかったから、片付けも早く終わった。ゴールデンウィーク中だからかな。欠席も多くて。」 「おまえはゴールデンウィーク感まるでないけどね。」 「だよね。でも、明日は何もないから。」 「うん。」涼矢は笑みを浮かべた。洗面所で手洗いとうがいを済ませて戻ってきた和樹を、わざわざ立ちあがって出迎えて、ハグした。和樹もその背中に腕を回す。 「涼、なんか良い匂いする。あ、シャンプーしたのか。」と和樹が言った。 「シャンプーもした。」"も"を強調した言い方をする。 「今日は一日中家にいたんだろ?」 「うん。」  だったらそう汚れてもいないだろうに。1日ぐらい風呂入らなくたって。――そんな時は入浴を省略してしまう和樹は、そう思った。が、即座にその意味に思い至る。 「……俺も、ちょっとシャワーしてこよう。」涼矢に巻きつけた手を外す。が、涼矢のほうが抱いたまま離そうとしない。 「後にしろよ。」涼矢が耳元で囁いた。「一日おとなしく待ってたんだから。」 「本当におとなしく、いいこにしてたか?」和樹は悪戯っぽく笑いながらそんなことを言った。 「してたよ。ちゃんと先生の言いつけ通り、準備して。」 「マジかよ。」 「チェックする?」  和樹は返事をせずに、涼矢を押すようにして、ハグを解かせた。そして、ベッドに向かう。涼矢もそれに着いていく。 「じゃあ、見せて。」和樹はベッドを顎で示した。「前に俺にやらせたみたいに、自分で、やってみせて。」 「え。」涼矢の顔が曇る。 「チェックするから。」 「これはちょっと、予想外の展開だったな。」涼矢は独り言のように小さく呟いて、ベッドに上った。「おまえは?」 「ここで見てる。おまえだってそうだっただろ。」和樹はベッドのすぐ脇のフローリングの床に座り込んだ。以前の涼矢とは逆の立場だ。確か宏樹の部屋でのことだ。仕返しのつもりもないが。――いや、やはりこれは仕返しか。

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