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第588話 花ある君と (2)
そこからドライヤーでのブロー作業に入ったため、会話はしばらく中断される。涼矢は少しだけ不安そうに仕上がりを待っている様子だ。
やがてドライヤーが静かになる。「な、どう? 少し分け目変えただけだけど。」和樹は再び鏡の涼矢に話しかけた。
「前髪、余計邪魔じゃない?」
「それがいいんだろ。こう、かき上げるのが。」
「そう?」
「うん。海外のハイブランドのモデルみたい。」
「よく分からないけど、おまえがいいならいいや。」
「自分の頭だったら、面倒くさくてやってらんないけどね。」和樹はそう言って笑った。「おまえをかっこよくするためだったら、やろうかなって気になる。」
「そりゃあ、どうも。」涼矢はそう言いながら、自分もそうだ、と思う。自分のためだけだったら食事だってどうでもいい。和樹のためと思えばこそ作る気になるし、苦にもならない。むしろ喜びだ。そう、なんだって、和樹のためなら。そこまで考えて、思い出した。「あ、すっごく大事なこと、忘れてた。」
「な、何?」
和樹の肩を押しのけるようにして、涼矢はリビングに行く。キャリーケースではなく、バッグからガサゴソと何かを取り出した。「なんで忘れてたんだろうな。そのためにこっちのバッグに入れたのに。」
「何だよ。」和樹はしゃがみこむ涼矢の背後に立った。
「遅くなった。誕生日、おめでとう。」涼矢は両方の手にひとつずつの包みを持って、しゃがんだ姿勢のまま、頭上の和樹に差し出した。
「あ……。ありがとう。2個?」
「開けてみて、どっちか好きなほう選んで。や、両方だっていいんだけど、要らないだろ、2つも。」
「財布?」
「そう。」
「米じゃなくて良かった。」和樹は笑いながら包みを開けた。「あー、これ、迷うな。長財布もいいなぁって思ったんだよな。でも、デカくなるからなぁ。これ、選ばなかった方は涼矢が使うの?」
「うん、そのつもり。」
「おまえはどっちがいいの?」
「和樹と同じこと考えてた。長財布にしたい気もするけど、かさばるしって。だから選べなくて、両方持ってきた。」
「うーん。」和樹は2つの財布を見比べる。そのうち、あ、と小さく声を上げた。「これ、これのブランドじゃない?」耳たぶのピアスを指で示す。
「そう。うちのほうにもできたんだよ、そのブランドのショップ。だから、ちょうどいいなって。」
「そっかそっか。やっぱりカッコイイよな、ここの。」それからまた思案して、結局、二つ折りの方を選んだ和樹だった。「紙のお金は涼矢くんのほうがたくさん持ち歩きそうだから。俺は会員証とかばっかりになりそうだから、こっちがいい。」そう言って笑い、長財布を涼矢に渡した。「ありがとう。」
「気に入ってもらえたんなら、良かった。」
「涼矢とお揃いのもの、2個目だな。」和樹はまた耳たぶに触れた。
「そんなことないだろ、食器もペアだし。」
「ああ、そうだった。」和樹は自分のバッグから今までの財布を出し、早速中身を入れ替えはじめた。それを見て、涼矢も同じように自分の財布を取り出す。和樹は「おまえの財布はまだきれいだろ。交換したらもったいなくない?」と咎めた。
「でも。」涼矢は心なしかしゅんとしている。「せっかくのお揃いだから。」
「それもそうか。」和樹は涼矢の頬に触れ、それからその頬にキスをして「ありがと。」ともう一度言った。
2人揃ってあの喫茶店に入るのは、去年のあの秋以来のことだ。いつものようにドアベルを鳴らしながら入る。
「いらっしゃいませ。……ああ、いらっしゃい。」一度目よりも少し砕けた二度目の「いらっしゃい」が、懐かしく聞こえた。
「いらっしゃいませ。」更にもうひとつの声。鈴を転がすような可憐な声のその主は、もちろんマスターの妻の夏鈴だった。
「あ、どうも。お久しぶりです。」和樹がお辞儀をすると、マスターと2人揃ってお辞儀を返してきた。
「あれ、もしかして、ちび涼矢くんもいるんですか?」と和樹がきょろきょろする。
「ごめんね、いないわ。保育園に預けてるの。」
「ああ、そうか。……そうですよね。」
会話しながら、夏鈴がこちらへどうぞという手招きをした席に座る。
「ご注文はお決まりですか?」産後すぐに見舞った時の夏鈴はもっとおっとりとした感じに見えたが、今日の夏鈴はテキパキと動いている。こちらが本来の姿なのだろう、と和樹は思った。
モーニングセットを注文して、それも食べ終わった頃、店内の客は和樹と涼矢だけになった。
「コーヒーのお替わり、お持ちしましょうか?」
「お願いします。」
お替わりを持ってきた夏鈴がコーヒーを置いた後に、また何かをエプロンのポケットから出した。「ちょっと親馬鹿させてもらってもいいかしら。」取り出したのはスマホで、写真を見せようとしているらしい。
「あ、かーわいい。」和樹が真っ先に声を上げた。今とは違う、ラフな服装のマスターと夏鈴、その真ん中にちょこんとお座りしているこども。
「これ、ちょうど、きみたちにもらったあれよ、あの靴下。とても気に入ってるみたいなの、涼ちゃん。」
「涼ちゃん。」と繰り返して、和樹が笑った。
「あっ、ごめんなさい。」夏鈴が慌てて涼矢に言う。
「いえ、だって、涼矢なんだし。」これはフォローになっているのだろうか、と自問自答しながら涼矢が言った。
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