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第589話 花ある君と (3)
「マスター、前髪おろすと若いですね。」と和樹が言った。カウンターの中のマスターはきっちりと整えたオールバックだ。
「やだ、どこ見てるの。」夏鈴がくすくすと笑う。
「保育園にも行けるってことは、元気なんですね。よかった。」と涼矢。
「ええ、体は他の同じ月齢の子よりは小さいけど、元気よ。保育園も慣れたみたい。」
「すごいな、こども育てるだけで大変だと思うのに、お店もやって。あ、ケーキは家で作るんでしょう? 休む間ないですね。」和樹が心から感心したように言う。
「そうね、本当は仕事は後回しにして、もう少し手元でこどもを見たかったけど、このあたりは保育園激戦区で、0歳から入れないとなかなか入れないのよ。しかもうち自営だし点数低くて。……なんて、きみたちにはピンと来ない話ね。」夏鈴は苦笑して、再びスマホの画像を選び出した。「ね、これ。傑作なの。見て。」
和樹と涼矢が覗き込んだ先には、サンタの格好をしたマスターがいた。抱かれているのは小さい涼矢だが、立派なつけヒゲのせいか抱っこしているのが父親だと分からないようで半ベソだ。和樹と涼矢も、半ベソの小さい涼矢ではなく、困惑の面持ちのマスターの表情に吹き出した。
「周りはみーんな若いパパでしょ、あの人がこの格好すると本当にサンタらしいおじいちゃんで、一番似合ってたんだけどね。」内緒話を聞かせるように夏鈴が言う。笑っていいものやら迷いつつも和樹たちも笑った。
その時、カランコロンとドアベルが鳴り、客の来訪を知らせた。
「いらっしゃいませ。」夏鈴の声が響く。それから和樹たちに「おつきあいありがとね。ごゆっくり。」と言うとその場を去って行った。
結局マスターと会話できたのは、会計の時だった。
「2人とも元気そうで。」とマスターが笑顔を浮かべる。今までも決して無愛想ではなかったが、そんな柔和な笑顔は初めて見た気がする和樹だった。
「写真、見せてもらいました。可愛かった。」と和樹もにこにこしながら言う。
「すみませんね、なんだか、うちのがはしゃいじゃって。」
「いえ。なんか嬉しいです。親戚の子みたいな気がします。」
「ありがとう。またいつでも寄ってください。元気な顔見せてくれるだけでも。」
「はい。」
涼矢はマスターと和樹のやりとりを黙って聞いていたが、ふいに何か思いついたように顔を上げた。「あ、あの。」
「はい。」とマスターが涼矢を見る。
「涼矢スペシャルの豆って、その、挽き方は……。」
「ああ。……家でも淹れてみた?」
「はい、何パターンが試してみたんです。でも、なんか少し違う気がして。豆屋さんに聞いたら、挽き方じゃないかって言われて。」
マスターは豆の挽き加減と、カップに注ぐ時のアドバイスをした。
「ありがとうございます。やってみます。」
「私も嬉しいですよ。そんな風に気に入ってもらえたのなら。」
そんな会話をして、2人は店を出た。
道すがら、「俺、涼矢スペシャル、結局最初の味見でしか飲んでない。」と和樹が不服そうに言った。
「だって、おまえんち、コーヒーミルもドリップ道具もないし。」かといってインスタントは嫌だから、と、今は簡易な市販のドリップパックを買って行っている。
「だからそれは、おまえが見繕って揃えてって言っただろ。」
「自分でイチからコーヒー淹れる?」
「淹れないけど、おまえが淹れてくれればいいじゃない。」
「俺が行く時だけのために道具一式用意するのは不経済だろ。残ったら豆の風味も落ちるし。」
「ちぇ。」和樹はこどものように唇をとがらせてすねた。
「……なんか小腹が空いたな。」涼矢が突然言い出した。
「ついさっきトースト食べただろ。」今朝は涼矢がトーストセット、和樹のほうがサンドイッチセットだった。
「さっきは寝起きであんまり食欲なかったんだよ。」
「家に何かあるだろ。」
「うん。おまえも食う?」
「俺はさっきので満腹。」
「じゃあ、やめとくかな。」
「なんでだよ、食えばいいだろ。」
「おまえのために自分が作ったものを1人で食いたくない。」
「俺がわがまま言ってるみたいな言い方。」
「そんなつもりはないけど……。」
「この後、買い物つきあってほしかったんだよな。」
「別に飢えて死にそうなわけじゃないよ、つきあうよ。何買うの。」
「風呂の椅子と、リモコンとかちまちましたもんポイッと入れるボックスみたいなやつ。」
「ああ、そういや風呂の椅子ないな。」
「狭いから邪魔だし、要らないなと思ってたんだけど、やっぱりあったほうがいいかなぁって。」
「あとアイロン台買えよ。」
「ベッドで代用できるんじゃないの。」
「あれはその場しのぎだよ。ちゃんとしたやつ欲しい。俺が金出すから。」
「意外と大荷物になるな。」
「だから俺がいるうちのほうがいいだろ。」
「そうだ、おまえと観たい映画もあったんだ。」和樹はスマホで検索をする。「よし。」と小さく呟いた。
「映画って?」
「2駅先に映画館あってさ、ちょっと変わった映画ばかりやるミニシアターなんだけど。」和樹はスマホの画面を涼矢に見せた。「これ、観たいやつ。」
「ああ、ネットで話題になってたな。少し前のだろ?」
「そう。友達も観て、おもしろかったって言ってたし。」
「いいよ、何時から?」
「今からだったら、11時の回かな。映画見て、メシ食って、買い物して帰るってのは? おまえの腹の空き具合にもよっては、メシ先に食べて、2時半からの回にしてもいいけど。」
「いや、11時の回でいいよ。……それにしても、インド映画かよ。」涼矢はふふっと笑う。
「そう、これはもう、おまえと是非観なくちゃと思ってさ。」
2人はそのまま電車に乗り、映画館へと向かった。
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