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第590話 花ある君と (4)

 映画館は和樹の言葉通りに小さな劇場で、100席に満たない座席数だった。危うくチケットが売り切れる寸前で滑り込む。待合ロビーにはいろいろな映画のチラシが置いてあるが、どれもマイナーな作品ばかりだ。 「来たことあるの?」と涼矢が尋ねると、和樹は首を横に振る。 「今日が初めて。塾行く時、ここでやる映画のポスター見かけるから、気にはなってたんだけど、なかなか機会がなくて。」 「塾、この近くなんだ?」 「うん。駅出て、反対の出口だけどね。ここからだと15分ぐらい歩くかな。」  そんな会話をしているうちに上映時間が来る。チケットを買うのがギリギリだったせいで良席は取れずに若干見づらい席ではあったけれど、あと数人遅かったら完売しているところだったようで、場内は満席だった。  泣き笑いのそのインド映画を観た後は、和樹が率先して前を歩く。どこへ行くのかとも聞かずに、涼矢は後を着いて行った。駅まで戻るように歩き、更にそこを通り抜けて反対側の出口から出た。駅前のロータリーの向こう側に商店街の入口が見える。和樹はそこに向かっているようだ。 「ここは大きいスーパーとかないけど、商店街が充実しててさ。」和樹がそう説明したアーケード商店街は、確かにたくさんの人で賑わっており、どの店も活気にあふれていた。「風呂の椅子はどういう店に行きゃあるのかな。」と独り言のように呟きながら歩く。「ああ、その前にどっかでなんか食うか。先に買い物したら荷物になるもんな。」これは涼矢に向かって言った。 「どこまで続くのか分からないぐらい長いね、この商店街。」と、涼矢は進行方向を眺める。 「俺も端まで行ったことないから、どこまで続いてるか知らない。」 「じゃあ今日、終わりまで行ってみる?」涼矢が笑う。 「そうだな。」和樹も笑う。アーケード商店街を端から端まで歩く。ただそれだけのことが、なんだか冒険のような気がした。でもきっと、1人で買い物に来ていたのならそんな気分にはならないのだろう、と思う。要は涼矢がいるから浮かれているのだ。  「風呂の椅子」や「アイロン台」のありそうな店があれば覗いてみつつ、2人はぶらぶらと歩いた。  そんな時、ふいに「あ。」と和樹が声を上げた。その声に涼矢は和樹を見て、それからその視線の先を目で追った。そこには靴屋があったが、今、靴屋に用事はないはずだ。だから和樹が見ているのは、そこに立っている少年なのだろう、と涼矢はあたりをつけた。そんな涼矢に何を言うでもなく、和樹はその少年に向かって歩き出し、涼矢もそれに続いた。このあたりは塾に近いと言っていたから和樹の教え子だろうか、と想像する。  和樹はやはり少年の前で足を止めた。「アキオ」と呼んだように、涼矢には聞こえた。 「こんちは。」緊張した表情でアキオはペコリと頭を下げる。  和樹が涼矢を振り返る。「この子ね、塾の生徒。明生くん。」  やっぱりそうかと涼矢は思い、明生少年に「こんにちは。」と挨拶した。お辞儀というほどでもなく、ほんの少し身をかがめただけなのに、いつもよりも重めに流した前髪が顔にかかって邪魔に感じ、無意識に耳にかける。そんな自分を明生がじっと凝視していることに気付いて、涼矢は戸惑った。学校の先生やかかりつけの医者を、学校や病院以外で見かけると奇妙な気分になる。そんな経験なら自分にも覚えがないわけでもない。だが、明生の視線は、それとはどこか違う気がしてならない涼矢だった。 「えっと、彼は。」和樹が自分を明生に紹介しようとして、言葉に詰まる。――友達だよ、そう言えばいいだけのはずなのに、何故そこで迷うのか。……嫌な予感がする。  その時、明生が突然言い出した。「七夕生まれの人?」  涼矢の目が見開く。その目で、もう一度、明生の顔を見た。まだあどけなさの残る少年。小学校の高学年か中学生といったところだろう。――和樹の塾の教え子。その子が何故、俺の誕生日を知ってるんだ?  戸惑いを隠せない涼矢をよそに、和樹は「うん、そうなんだよ。」とあっさりと言いのけた。  何が起きているのか理解できないまま、涼矢は和樹を見て、もう一度明生を見た。  明生は人差し指を口の前に立て、どこか楽しそうに笑って、和樹に向かって「みんなには、しーっ、なんだよね?」などと言った。  涼矢は更に動揺した。百歩譲って誕生日の話題が出て、七夕生まれの友達がいるんだ、そんなことを生徒の前で話した、そんなことはありうるかもしれない。けれどそれなら「秘密」にする必要はない。涼矢は和樹の反応を見る。 「そうだね。」和樹が平然とそう答えるのを聞いて、涼矢は思わず肩をつかんだ。 「ちょっと、なんでこの子が。」何かの勘違いかもしれない。聞き間違いかもしれない。涼矢はそんな可能性に期待しながら、和樹に詰め寄った。明生は相変わらずこちらに注目しているのは分かっていたから、その先は注意深く小声で話した。「塾の生徒だろ? なんで俺の誕生日知ってんの。しかもみんなには秘密ってどういうことだよ。どういう説明したんだよ。」

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