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第596話 fingertips (1)

「普通に、それまで通りに接してくれるのが一番いい。」涼矢は和樹を見ずに言った。「可能性があるなら別だけど、ないなら、特別なことなんかしないでほしい。……俺は、そう思ってた。」  いくら好きでも結ばれることがないのなら、せめて今の関係を壊さないままでいたい。自分の恋はいつもそういう恋だった。その先に、その向こう側に、手を取りあえる未来など思い描けない恋だった。  その未来に、今、自分がいる。隣に和樹がいる。この先も一緒に生きて行こうと言ってくれる。それはまるで奇跡のようで、夢のようで、時々、泣きたくなる。その感情を、涼矢はまだ冷静に分析することはできない。  その一方で、明生の幼い恋情は、簡単に自分の初恋に重ねることができた。最初は、それが恋だと分からないほど淡い想いだった。彼の唇が、彼の想い人を語った時に嫉妬心が芽生えて初めて、恋だと知った。 ――ならば明生は、俺に嫉妬しただろうか。そうして、明生は恋心を自覚しただろうか。それは彼にとってひどく残酷なことではなかっただろうか。  ぐるぐると考える涼矢だったが、和樹はあっさりと「分かった。」と言った。和樹に分かるはずがない、と口走ってしまいそうになったが、それより先に和樹が「参考意見として、聞いておく。」と続けたので、言わずに済んだ。――そうだ。和樹に分かるはずがない。だって和樹はそんな恋をしたことがないはずだから。でも、俺なら分かるなんて思うのも、奢りというものだろう。自分がそう言ったのだ。同性を好きになる奴がみんな俺と同じじゃないのだと。俺だって明生の本当の気持ちなんて分かりゃしないんだ。  和樹は風呂椅子に巻いてある紙を外し、浴室に持っていく。戻ってくると、これも買って来たばかりの収納ボックスを組み立てた。リモコンはテレビだけではない。オーディオ機器用やエアコン用など、数種ある。それらをまとめてそれに入れた。  2人とも、明生についてはそれ以上語ることをしなかった。  和樹がふと時計を見る。「もう、こんな時間か。」気が付けば夕方の5時を回っていた。「あ、おまえさ、今回は絵とか彫刻とか、観に行かなくて良かったの? 今日1日空いてたのに、俺にばかりつきあわせちゃったな。」 「うん、まあ。行きたいのがないわけじゃないけど、どうしてもってほどでもないから。」 「明日の午後なら空いてるよ。」 「午前中は講義?」 「そう。バイトはない。」 「でも、明日、こどもの日だろ。上野なんか、すげ混みそう。」 「すげ混むな。」 「やめとく。」 「じゃあ、他にどっか、行きたいところは? ディズニー……も混むな。」 「だろうな。どこも混んでる。」 「だよな。」 「俺はいいんだ。和樹がいれば。部屋に2人でずっと籠もっててもいい。」 「またおまえはそういう……。ま、それでもいいけどさ、俺も。」 「明日は和樹の誕生会でもしようか? ああ、今日、明生くんと一緒におまえも祝えば良かったか。」 「いいよ、そんなの。それに。」言いかけて、和樹は黙る。 「それに?」 「明生のついでみたいに祝われたくない。」 「……ああ、そうか、ごめん。」 「心狭いな、俺。」和樹は笑った。 「まぁ、そんなもんだろ。」 「兄貴も2月生まれなんだ。あっちは5日で、それで毎年、10日前後に兄弟一緒くたに祝われてた。下手したらケーキもバレンタイン仕様のチョコケーキだったりしてさ。なんていうのかな、俺の誕生日を祝ってるんだ、って感じがあまりなかったんだよね。家族で祝わなくなってからも、バレンタインと被るし、俺の誕生日ってのはスルーされがち。」 「そのうちね。一緒に暮らすようになったら、ちゃんと当日に、和樹のためだけに誕生会するよ。」 「言葉にしたら、すげえガキっぽくてやだな。」和樹は苦笑する。 「分かんなくもないよ。俺もほら、七夕だから。俺の誕生日なのに、他の奴らも願い事できるのはずるいなって思ったことある。」 「心せまっ。」 「何かの日に被ってる奴は、いいような悪いような、だよな。クリスマス生まれの奴も、プレゼントが兼用だって嘆いてた。けど、クリスマスとかバレンタインならさ、まだ、華やかじゃない? お店でもパーティープレートとか売り出すし、お祝いっぽい。七夕ってせいぜい素麺だから。」 「素麺。」和樹は声を立てて笑った。「分かった、おまえの誕生会は素麺で。」 「だから、やだっつってんの。」涼矢も笑う。 「とりあえず今日の晩飯、なに?」 「素麺にしてやる。」 「やめ。」 「ああ、でもいいかもな。ソーミンチャンプルー。作り方簡単だから、覚えておくと米を切らした時とか、炊く時間ない時に便利だよ。」 「麺がない。」 「買ってきてよ。」 「人使い荒いな。」 「どっちがだ。当たり前に人に作らせようとしてるくせに。」 「それ、明日にしようぜ。だったら大学帰りに買ってくるからさ。今日はもう出たくない。」 「分かったよ。」

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