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第600話 fingertips (5)
「ああ。」涼矢はうっすら思い出してきた。「大人になって、自立して、もっと堂々と生きていきたいとか、そんなようなこと、言ったかな。」
「うん。……堂々と、の前に、俺のこと言ってた。」
「思い出した。」涼矢は全裸でバスタオルをだらりと腕から垂らしている和樹を見た。筋肉質な裸体に白い布、という立ち姿は、ギリシャ神話にでも出てきそうに見えた。場違いな取り合わせだな、と思って涼矢は笑った。
「なんだよ、なんで笑うの。あれ、俺は結構感動したのに。」
「いや、ごめん。ちゃんと覚えてる。」涼矢は和樹を愛しげに見つめた。「大人になって、俺の選んだ人と堂々と生きていけるようになりたい、だったかな。」
「それって、俺のことでいいんだよな?」
「ほかに誰がいるんだよ。」
「だよな。……んで、おまえはちゃんと、そう進んでる、よな。俺は最近やっと渡辺に言えたところで、まだまだだ。」
「俺だってまだまだだよ。けど、おまえが急がなくていいって言った。今しかできないこともあるんだからって。」
「そうだっけ?」
「うん。」
「そっか。いいこと言うな、俺?」和樹は笑って言い、今度こそバスルームへと消えた。
――今しかできないこと。
和樹はシャワーに打たれながら、自分が言った言葉を反芻する。
――大学生。就職活動が本格化するまでにはまだ余裕のある2年生。19歳。1人暮らし。サークルは学祭実行委員会に所属。塾講師のアルバイト。……恋人あり。
そんな自分が、今しかできないことってなんだろう。自転車で日本縦断でもするか。就職に有利な資格でも取るか。何かスポーツに打ち込むか。面白い動画でも撮ってネットの人気者を目指すか。
どれも陳腐に思われる。それが本当に自分のやりたいことならいいだろうが、そうではない。偉そうに「今しかできないこと」などと涼矢に言っておきながら、本当にやりたいことのひとつもない。自分の中身の空っぽさに呆れてしまう。
和樹がバスルームから出ると、食卓はもうあらかた涼矢がセッティングしてくれている様子だ。
「俺も軽く浴びてきていい?」
「もちろん。」
涼矢は新しい着替えを手に、入れ違いでバスルームに行く。そして、言葉通り、すぐに出てきた。髪は洗わず、肌を洗い流しただけのようだ。
「味噌汁温めるから、ごはん、やって。」と涼矢が言い、和樹はそれに従って炊飯器の前に立つ。
――これが毎日ならいい。
和樹はそう思う。涼矢と暮らして、こんな風に、他愛のない毎日を。
「なんだよ、ニヤニヤして。」2人が食卓につくと、涼矢が言った。
「ん? いや、こういうのいいなって。幸せだなって思った、だけ。」
涼矢は微笑む。「俺もそう思う。そのうち、これが毎日になるのかなって思うと、楽しみ。」
涼矢は、和樹も同じように笑ってくれるかと思っていたのに、和樹の表情は逆に固くなったように見えた。
和樹はぎこちない笑みをやっとのことで浮かべて言った。「そのうちいつか、のことは思い浮かぶけど、今すぐのことって思いつかない。」
「え、何の話?」
「いや、なんでもない。」和樹は白飯をかきこむように食べた。
「なんでもなくなさそう。」
「大したことじゃない。なんかさ、俺も、おまえみたいに、打ち込めるものが欲しいって思っただけ。」
「俺、なんか打ち込んでたっけ。」
「やってるじゃん、弁護士の勉強。」
「ああ。でもあれは義務みたいなもんだし。それ言うなら和樹だって教職課程とか。」
「一緒にするの無理あるだろ。俺、先生になりたいわけじゃないしさ。」
「いいんじゃないの、大学ってそういうの考えるための時間でもあるんだから。」
「就活がもう始まってるってこと?」
「違う。もっと、根本的なこと。自分の人生、この先どっち向いて進もうかなって、あれこれ迷って、試していい時間だってこと。……って、高校の進路指導の先生が言ってたよ。覚えてない?」
「まったく記憶にない。」
「絶対寝てたな。」
「だな。」和樹が空の茶碗を持って炊飯器に向かい、おかわりをよそって戻ってくる。「結局さぁ、そういう話って、言われなくてもきちんとする奴だけが聞いてて、本当に聞くべき俺みたいなのは聞いてないんだよな。」
涼矢は笑う。「ほんと、それ。けど、聞いても聞かなくても大差ないよ、そんなの。聞いてなくたって、和樹はちゃんとやってる。」
「涼矢くんだけだから、そう言ってくれるの。単位はギリギリだし、サークルもさ、大学 で誰かと会うたびにたまには顔出せって言われて、やんなきゃいけない最低限のことはやってるけど、いつもそこ止まり。もうちょっと、自発的になんかやらなきゃなって思うんだよ。」
「真面目。」
「そ、真面目。」
「自発的なこともしてるだろ? 明生くんのこととか。」
「明生?」
「バイト講師がケーキ奢るまでしなくたっていいのに、自発的にさ。」
「ああ。」和樹は笑う。「あいつ、可愛いんだよな。なんか構いたくなる。生徒は平等に接しなきゃいけないんだろうけど、ついね。スイミングの時から頑張り屋なのも知ってるし。」
「あれだけ慕われてりゃ可愛いだろうよ。」
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