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第607話 adolescence : moratorium (7)
和樹は無言で着替えはじめた。脱いだズボンはベッドの上にふわりと置いて、シャツは元の針金ハンガーにかけた。半端にずり下げられたパンツを穿きなおし、新しいパンツと部屋着を手にして、バスルームに向かう。和樹がシャワーに行っている間に、涼矢がそのズボンの皺や汚れをチェックして、やはりハンガーに上着と一緒に掛け直した。打ち捨てられたように床に落ちているネクタイを最後に回収する。結んだところが皺にはなっているが、吊るしておけば直るかもしれない。結ぶ前から若干くたびれていたネクタイだった。ダメならそれこそ新しいネクタイを買ってやったっていい。もらい物のスーツは渋いチャコールグレーで、ただでさえ大人っぽい。ネクタイも正直センスがいいとは言い難い。よくファッションにうるさい和樹の母親がこれを持たせたと思うほどだ。
今度の和樹はすぐに戻ってきた。脱ぎ散らかしたものが片付いているのを見て、「ああ、サンキュ。」と礼を言ったが、元はと言えば涼矢のわがままにつきあったようなものだ。「おまえもシャワーする?」だから、すぐにそれとは関係ないことを話しかけた。
「いや、いい。」涼矢は髪の毛をタオルで拭いている和樹を抱き寄せた。「大丈夫?」
「何が。」タオルごと抱きしめられて、タオルの湿り気をうなじに感じる。
「どこか、痛いところとか。」
「ないよ、平気。」
「我慢するなよ?」
「何を。」
「何でも。痛いとかしんどいとか。……あと、気持ちいいのも。」
「してねえよ。」散々気持ちいいと言ったじゃないか。言わなくても、いつだっておまえはお見通しじゃないか。自分でも気づかないような欲望を引きずり出して、俺につきつけてくるのは、涼矢じゃないか。カッコつけて痩せ我慢したくたって、おまえの前じゃ無理だろ。……でも、せめて、そのことを言わないでいるぐらいの「カッコつけ」はさせてほしい。
和樹は涼矢の腕をやんわりどけて、ベッドに座った。涼矢も同じように隣に座る。
「さっき、考えごとしてたろ? ヤッてる最中に。」と涼矢が言った。
「別に大したとこじゃない。カーテンの模様見てただけ。」
「それだけ?」
「それだけ。こんな柄なんだなって思って。」そして、そう思ったのは初めてじゃないこと気づいて、そう感じる理由を考えていた。
「柄なんてあったっけ。」カーテンを見ようとしたのか、涼矢が立ち上がろうとすると、涼矢のスマホにメッセージの着信を知らせるランプが点いた。床に近いコンセントに充電器をつなげていたから、スマホも床上にある。――そうだ、だから、涼矢が充電器を忘れないよう、帰る日の前夜はベッドのヘッドボードにある俺の充電器と交換して使わせてくれ、なんて言って。和樹はそんなことを思い出しながら、スマホを操作する涼矢を見つめた。
その時だ。カーテンの謎が解けた。
「なんだ、ただの広告だ。」涼矢はそう呟いて、すぐにスマホを戻した。
あの時。デリバリーピザをオーダーすると言ってスマホを操作していた涼矢。夏休みの2週間を一緒に過ごして、その最後の晩餐だった。最後ぐらい豪勢に、などと言ってピザを奢ってくれた。
――俺はその「最後」という言葉に、涼矢が帰ってしまうカウントダウンが始まったような気がして、淋しくて、辛くて。それで、「最後の晩餐」のためのオーダーをする涼矢すら見ていられなくて、目をそらして、でもすることもなくて、カーテンを見てた。こんな模様だったのかと思ったのは、その時だ。
「どうした?」涼矢が小首をかしげる。
「なんでもない。」
「本当だ。模様ついてる。」涼矢がカーテンの生地を見る。隙間が空いて、街灯の光が差し込んだ。その光に直撃された和樹が顔をしかめると、涼矢は慌ててカーテンを閉めた。
「明日。」と和樹が言った。「どこ行きたいか、決めておいて。午前しか講義ないから、1時半ぐらいには戻れる。家に籠もっててもいいけどさ、せっかく東京いるんだから。美術館でもなんでも。」
「うん。ありがとう。」
今日はまだ「前夜」じゃない。淋しがらなくていい。和樹はそう自分に言い聞かせた。それに2ヶ月もすれば夏休みだ。「涼矢、夏休みは、何か予定あるの?」
「ない。」
「俺はたぶん、夏期講習があるけど、いつ来てもいいから。」
「今年も帰省しないの?」
「まだ決めてない。」
「どっか行きたいね。」
「2人で?」
「そう。泊まりで。」
「ああ、いいね。」
「俺がここ来て、おまえが帰省して、それで旅行できたら、いいな。」
「たくさん会えるな。」
「うん。」涼矢が戻ってきて、和樹の隣に座った。なんとなく、ベッドの上で手を重ねた。
「高校の3年間、もったいないことした。」
「え?」
「毎日一緒にいたのに。」
「そうだけどさ。」
「おまえがもっと早く告ってくれたら良かったんだ。」
「そしたらもっと早くつきあえた?」
「そう。」
「はは。」涼矢は重ねていた和樹の手を軽く持ち上げ、「恋人つなぎ」のように指を絡めた。
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