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第609話 adolescence : moratorium (9)
「哲も哲なりに後悔も反省もしてたみたいだった。正月の、おまえに対する態度の悪さとかね。それ以外のことも、いろいろ。口先ではそういう謝罪も何度か受けてたけど、その時の哲は、今までとは違ってて。本当に……うーん、普通だった、としか言えないんだけど。憑き物が落ちたみたいっていうのかな。留学するってなったら、俺とギクシャクしたまま行くのが嫌だったみたいだ。」
「そっか。まぁ、それなら良かったじゃん。」
「学内審査パスしたら、夏休み入ってすぐ、7月には発つって。留学先は9月新学期だけど、その前に語学スクール行くんだって。」
「7月か。……すぐだな。」
「すぐだよ。」
それはもう、哲の出立の日のことではなくなっていた。夏休み。明後日涼矢が帰ったら、またそれを指折り数える日が始まる。
「寝よう。」唐突に涼矢が言う。「明日、一限からあるんだろ?」
「ああ。」
涼矢はさっさと布団にもぐりこむ。いつの間にやらこのベッドで2人で寝る時には、涼矢が壁際と決まってしまった。和樹のためのスペースを広く取っているつもりなのだろうが、涼矢はいったん可能な限り壁に寄る。そんな涼矢を、和樹はまた引き戻して、結局は真ん中に2人寄り添うことになるのが常だった。ただし、朝起きる時までその状態が保たれることは少なかった。夏場の涼矢はひんやりとした壁に貼りつくようにしているし、和樹は季節を問わずにあまり寝相がよくないようで、しばしば大きく斜めになっている。それでいてベッドからギリギリ落ちないところに留まっているのは器用なのか不器用なのか。
「なあ。」布団の中で手をつないで、和樹が言った。
「ん?」
「涼矢ってのはなんて説明したの? その、漢字マニアのアメリカ人に。」
「直訳だと Cool arrow という意味だけど、矢は的の中心を狙うから、物事の真ん中、核心を目指して進めって意味だ、って言った。」
「なるほど。それも良い名前だって言ってなかった?」
「言ってたよ。クールな判断をして、真ん中を目指すのは正義ということだから、法律家には大事なものだって。」
「哲もその場にいたの? 哲の意味は? アイアン、じゃないか、哲学の哲だもんな。」
「そう、だからそのまま哲学、フィロソフィって意味だって答えてた。」
「何が哲学だよなぁ、あいつが。」和樹は自分で言って自分で笑い、涼矢もつられて笑う。
「まぁ、あいつ独特の哲学はありそうだけどな。」
「知らないよ、あいつの哲学なんて。もうやめよ、哲ネタ。」
「和樹が言い出したくせに。」
「そうだった。……でも俺、自分の名前に平和って意味があるなんて思ったことなかったな。漢字を説明する時には昭和の和って言ってたし。これからは平和の和ですって言おう。」
「平和の樹だよ。良い名前。……とにかく、もう寝よ。明日、起きられなくなるぞ。」
「うん。」和樹は、ベッドに寝そべったまま手が届くようになったリモコン入れから、天井照明のリモコンを取って、消した。
おやすみと言い合う声が、薄暗がりに響いた。
翌朝はなんとかアラームで起きたが、何度かのスヌーズを経ていたから、予定よりは遅くなった。和樹は洗面などでバタバタとしはじめたが、涼矢はのんびりとベッドから出て、朝食の仕度をする。
「悪ぃ、食ってる時間、あんまりない。」
「うん。」そんなことは見れば分かるといった様子で、涼矢は動じない。涼矢はふりかけを混ぜ込んだおにぎりをいくつか握り、テーブルに置いた。
髭剃りも着替えも終えた和樹が、「うまそ。」と言いながら、それを立ったまま食べた。
「ちゃんと座って食え。」
「時間ない。そのためにおにぎりにしてくれたんだろ?」
「違うよ、手早く食べられるためではあるけど、立ったまま食えるようにじゃない。」
「はいはい。」和樹は渋々座り、2つめのおにぎりに手を伸ばす。「あ、時間……。まあいいか、食っちゃえ。」
「味わってよ。」
「美味いから2個目食ってるんだよ。……んじゃ、ごちそうさま。」丸飲みするように2つめを平らげて、和樹は立ち上がる。
「はい、お茶。ぬるめだから。」
「気が利くぅ。」渡されたのは湯呑茶碗ではなくて、その代用のマグカップだ。涼矢の言葉を信じて、一気にそれを飲み干すと、慌ただしく玄関に向かう。「じゃ、行ってきます。」
「慌てんなよ。」
「うん。あ、そだ。」和樹は涼矢の頭をぞんざいに引き寄せて、キスをした。「帰ったらもうちょっとじっくりしたやつ、しような。」などと言う。
「何言ってんの。いいから、早く。」
「行ってきます。」もう一度言って、ドアを勢いよく開けて出て行く和樹の背中に、涼矢は早口で「行ってらっしゃい。」と言った。
涼矢は自分は食べかけだったおにぎりの残りを食べる。打って変わって味気ない。それでも口に押し込んで、さっきよりも更にぬるいお茶で流し込んだ。
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