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第610話 adolescence : moratorium (10)
和樹の気配の残る部屋で、涼矢はしばしボーッとする。勉強道具は一応持ってきた。だがテキストを開く気力が湧かない。昨夜和樹が着ていたシャツが視界に入る。あの一瞬しか着ていないそれを洗うべきか考える。悩むぐらいなら洗ってしまえと洗濯機に放り込んだ。洗濯機を回しながら掃除をする。洗濯物は少量だったから、掃除を終える頃には洗濯も終わって、それを干した後にはベッドに寝転んだ。
昨晩はなかなか寝付けなかった。早く寝ろと促せば、間もなく素直に寝息を立てはじめた和樹だった。キッチンの窓から入ってくる月明かりで、その寝顔が薄闇に浮かんだ。それを眺めていたら、寝ろと言った当の本人はちっとも眠くならなかった。
日本人にしては彫りの深い顔立ち。眉のところが高くて、日差しの下なら影を作ることを知っている。鼻も高い。眉間のあたりから隆起が始まるのは西洋の彫刻を連想させる。それから、今こうして薄暗がりの中で見ても分かる、長い睫毛。顏の上半分はそんな風に"濃い"のに、唇は案外と薄い。唇が厚い人は情にも厚いと聞いたことがあるけれど、和樹には当てはまらないと思う。起こさないように気を付けながら、その唇に親指でそっと触れてみた。まったく反応しない。それをいいことに、キスもしてみた。わずかに顔を背ける動きを見せたが、やっぱり起きなかった。「好きだよ。」と囁いてから、ようやく自分も目をつぶった。和樹が俺の夢を見たらいいのに、と思いながら。
だから、朝起きた時には、多少期待していたのだった。「昨日の夢、涼矢が出てきたよ。」そんなことを和樹が言ってくれないものかと。だが、和樹は若干寝坊して身支度に忙しく、そんなことは言ってくれなかった。夢を見ていたとしても忘れてしまっていたに違いなかった。
少し淋しい気もしたけれど、実際同じベッドで寝ていられる時に、夢まで支配しなくていいだろうと思い直す。
――遠く離れている時にこそ、俺の夢を見てくれたらいい。
――いや、離れていようがいまいが、他人の夢までコントロールしようとするのは変な話か。
自分の独占欲の強さに呆れつつ、涼矢は和樹が前に言っていた、「夢にまで見るのは、見る側の相手への想いの強さでなく、相手の自分に対する想いの強さ」という平安の考え方を思い出していた。
――だとしたら、俺が和樹の夢に登場するには、もっと恋願わなければならないのか。
そう思う自分だって、和樹の夢などほぼ見ないのだけれど。それを和樹が自分を想ってくれていないからだ、などとは思わない。朝起きたら同じベッドで、すぐ隣に和樹がいる。その現実のほうが夢よりも夢のようだ。
和樹は予告した通りに午後1時半に帰ってきた。
「おかえり。」
「ただいま。」和樹は靴を雑に脱ぎ、片方のスニーカーがひっくり返ったのも気にせずに部屋に上がってきた。「ああ、ねみぃ。」
「眠い?」
「昨日寝るの遅かったから。」
「そうか?」ベッドに入ったのは零時を回ってはいたが、2時3時まで起きていたというのでもない。普段の電話だってそのぐらいの時間になることはあった。
「体力使ったし。」和樹は意味ありげに笑って言う。
「ジョギングして体力つけたんだろ?」
「まだ走り始めて2週間ぐらいだし、3日にいっぺんしか行ってない。」
「じゃあ4、5回しか走ってない?」
「……2、3回かも。」
「なぁんだ。」
ははっと笑って、和樹はベッドにダイブする。「あれっ、じゃあ、痩せたと思ったのは気のせいかな。」ベルト穴ひとつ分細くなった。昨夜は確かそう言っていた。
「体重は?」
「量ってない。体重計ないもん。学校の健診では去年と変わってなかったと思うけど。あ、盲腸がなくなったから細くなったんじゃない?」
「そんな馬鹿な。」
「なあ、どこ行くか決めた?」
「いや。本当に、特に行きたいところなくて。」
「じゃあカラオケとか、ボウリングとか。」
「俺と? 2人で?」
「嫌?」
「嫌っていうか、つまんないだろ。俺とそういうの行ったって。歌わないし、ボウリング下手だし。」
「下手なの?」
「下手。球技全般下手。」
「マジか。っていうか、ボウリングって球技?」
「ボール転がすんだから球技だろ。」
「そうかなぁ。……まぁそれはいいとして、なんか意外だな。スポーツ全般得意なのかと思ってた。」
「それはおまえだろ。俺、体育祭で活躍したことねえよ。」
「応援団。」
「だから応援団なんだよ。選手に選ばれないから、応援団 だったの。おまえは長距離とかリレーとか、いろいろ選ばれてたけど。」
「そこまで鈍くさかったイメージもないけどね。」
「平均的にはできたよ。でも平均。身長のせいで勝手に期待されては裏切ってたよ。だから余計、バレーとかバスケとか苦手なんだ。」
「手もデカいし、球技向いてそうなのに。」和樹は涼矢の手を持ち、広げさせた。「バスケットボールもつかめそうじゃん。……あ、水球とかやればよかったのに。泳ぎは得意なんだし。」
「うちの高校に水球部なんかなかっただろ。あっても入らないけど。」
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