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第617話 adolescence : moratorium (17)
「和樹のほうが上手いよ。フラット気味だけど。」
「ふらふらしてる?」
「いや、ピッチが……音の高さが少し低くなりがちってこと。でも、それは下手とは違う。和樹は上手いと思う。」
「音程ズレてたら下手だろ。」
「そんなことない。オペラならジャストで歌わないとだめかもしれないけど、ロックやポップスはそれ含めて個性だし。少なくとも聴いてる人は、俺の歌より和樹の歌のほうを心地よく感じる。」
「俺はおまえの歌、心地よく聴いたけど。」
「それは良かった。」涼矢は本気で取りあってはいないような答え方をして、買ってきたものの分別を始める。冷蔵庫に入れるもの。今すぐ調理をするもの。明日の朝のための食パンは、レンジ兼トースターの前のスペースに置く。
「明日は、何時までいられる?」ついに和樹が明日のことを切り出した。涼矢の動きが止まった。
涼矢はくるりと和樹のほうを向いて、シンクに寄り掛かるようなポーズを取る。「ここを8時に出るぐらいかな。混むだろうけど仕方ない。」連休の最終日の新幹線の話だ。「もう1日伸ばせたらいいんだけど、月曜の講義はちょっと落とせないやつで。」
「悪かったな、大学、休ませて。」
「勝手に押しかけたのはこっちだから。」
「いつ来てもいいって言ってるだろ。」
「結局誰もここに呼んでないの?」
「盲腸の時に、兄貴が来ただけ。」
「例の、あの、サークルの。俺のこと話した友達も?」
「渡辺? 呼ばないよ。あいつんち大学から近いもん。元々地元なんだ。俺があいつんち行ったことはある。」
涼矢の眉毛がピクッと上がる。和樹はそれを見逃さなかった。
「泊まってないよ。学祭前の準備の追い込みの時、どうしても終わらない作業があって、何人かで渡辺の家に集まったんだ。泊まった奴もいたみたいだけど、俺はまだ終電ある時間だったからここに帰ってきた。」
「実家?」
「実家。渡辺のお母さん、夜食にっておにぎり出してくれてさ。こーんなに。」和樹は両手で山の形を作ってみせた。「でも梅干しばっかで、俺1個しか食わなかった。」
「梅干し苦手だもんな。でも1個は食ったんだ?」
「その時は中身が何か分かんなかったんだよ。食べかけを残すわけにもいかないし、頑張って食ったよ。渡辺が梅干し好きみたいでさ、母親って息子の好物は誰もがみんな好きって思い込むっていうか。」
「ああ、あるある。」
「自家製だって言ってた、梅干し。」
「へえ、こんな都会にも梅干し作る家、あるんだ。」
「俺も意外だった。」
その頃にはもう、涼矢は和樹の話を背中で聞いていた。野菜の皮を剥きながらの会話は、こんな程度の軽い話題が都合よかった。
テーブルの上には具沢山の味噌汁に、豚の生姜焼きが並んだ。千切りのキャベツは生姜焼きの添え物ではなく別の皿に大盛りになっている。一目見ただけで涼矢の「野菜を食べろ」というメッセージが伝わってくるようだ。それにタコとわかめの酢の物。これは作ったのではなく、総菜コーナーに半額で売られていたものだ。
「あ、酢の物平気だった?」と、酢の物の器を置きながら涼矢が言う。
「うーん。あんまり得意じゃないけど、食べられなくはない。」
「酸っぱいものが苦手?」
「そう、だね。レモンスカッシュとか、レモン風味のお菓子は好きだけど。」
「甘いもんな、そういうのは。」
「でも、これも食べるよ。」
「偉い偉い。」
「こども扱いすんな。」和樹はそう言って笑い、食事が始まった。
食卓の上が半分ほど消えたところで、涼矢が聞いた。「ところでさ、この部屋のどこに宏樹さんの寝るスペースが?」部屋の面積に対してダブルベッドはいかにも大きい。その分、床が見えている部分は少なくて、今だってローテーブルとベッドの間のわずかなスペースに体をねじ込んで食事をしている。エミリならまだしも、大柄な宏樹が寝るスペースはない。
「俺は入院してたんだから、普通にベッドだろ。」
言われてみれば当たり前のことだった。「あ、そっか。」
和樹はニヤリと笑う。「変なもんは見つかってない。しまう時間はあったからぬかりない。」
「馬鹿、そんな意味で聞いたんじゃないよ。」そう言いつつ、涼矢は振りむいて「いつもの場所」にコンドームやローションが置いてあるのを確認した。涼矢が来ている間は、それらは剥き出しでベッドのヘッドボードにある。アナルプラグは見当たらないが、詮索はやめておいた。
「兄貴、几帳面だからさ、俺が退院してここ戻った時、シーツから枕カバーからぜーんぶ洗って交換してあったぜ。」
「宏樹さんが几帳面なわけでは。」
「はいはい、俺が雑なのね。」和樹は笑った。気付けば皿は空になっており、和樹はそれを片づける。「兄貴だってずっと実家暮らしなのに、なんでこうも違うもんかねえ。」
「持って生まれた性格だろ。……でも、俺と宏樹さんタイプは一緒に暮らせないだろうから、やっぱり和樹で良かったよ。」
「几帳面同士でいいんじゃないの? モデルルームみたいなぴっかぴかの部屋になりそう。」
「ならないよ、几帳面の種類が違う。喧嘩にはなるかも。」
「なんでさ。」
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