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第619話 adolescence : moratorium (19)
「ん。」涼矢が和樹に何か差し出している。何かと思えば、イヤホンの片方だ。耳にあてれば、聴き覚えのある曲が流れてきた。和樹は、いつもなら注意深く聴くことのない歌詞に気を付けて聴いた。
1番は片想いの切なさを、2番は両想いになった幸せを歌っている曲。そう思って意識して聞けば、その通りだった。
せっかく笑って「じゃ、またな」って言えそうだったのに。和樹は心の中で涼矢を責めた。こんなの聴かされたら、泣きたくなるだろうが。
曲が終わった瞬間に、和樹はイヤホンを引き抜いて涼矢に返した。「うん。おまえの言ってたような歌詞だった。」
「だろ?」涼矢のほうは穏やかな表情だ。
「これからは2番だけ歌え。」和樹はニコリともせずに言った。
涼矢は一瞬驚いて、それから「分かった。」と言った。
東京駅の構内は混雑していた。だが、それもいつも通りの光景だった。暗黙の了解のような人の流れに乗り、誰とぶつかることもなく、すいすいと歩けるようになった。スピードを落とさずに器用に歩く和樹のすぐ後を涼矢は追いかけるが、ある地点でふいに和樹の足が止まった。「あそこのカフェ。」と和樹は言った。指は差さずに視線だけでその場所を示す。
「あれが?」
「おまえを見送った後、倉田さんに奢ってもらった。去年の夏。」
「……ああ。」
「誰かに怒られたかったって、どういう意味だろ。」
「えっ?」
「倉田さんが言ってたんだ。」
涼矢は小首をかしげて一瞬考えるが、すぐに「それは、そのままの意味じゃない?」と言った。
「俺には分かんねえな。怒られたいって何? マゾか?」
「答えは分かってても、体が動かないような時にさ、背中を押してほしい……のとは、ちょっと違うか。」
「自分から哲を振ったくせに。」
俺もだ、と涼矢は思う。俺もそんな哲を振ってしまった。だって俺には、和樹 がいるから。涼矢は和樹を見つめた。2人は人の流れをせき止める場所に立っているけれど、みんな無表情のまま器用に避けて通り過ぎて行く。目的地を知っている人は、俺たちのことなど目もくれずに足早だ。誰に背中を押されずとも。
倉田さんは背中を押してほしかったんじゃない。背中を押す側になりたかったんだろう。哲は背中を押されたがってはいなかったけれど。
「和樹は今、なんでここにいるの?」そんな言葉が口をついた。
「はぁ?」あからさまに不機嫌な顔になる。「おまえを見送りに来てやってるんじゃないかよ。」
「……だよね。あの時の倉田さんもそうだったと思う。」
あの時の彼もきっとそうだったのだ。離婚も覚悟で哲を受け止めようとしていたはずの彼が、その哲を手離した理由。あいつを遠くに追いやりたかったわけじゃない。邪魔になったわけでもない。ただ、送り出したかったのだ。近くにいたら傷を舐めあうことしかできないのに、哲はそれを不満にも思わずに甘んじてしまうから。
「何の話してんだよ。俺はおまえにお別れ言いに来たわけじゃないよ。一緒にするな。」
「倉田さんも別れたくなかった。でも、そうしなきゃいけなかった。だから、おまえに怒られてホッとしたんだ。これはただの見送りじゃなくて、お別れなんだって、ちゃんとけじめつけてもらって。」
和樹は眉をひそめた。「俺が決定打になっちゃった?」
「違うよ、別れは決まってた。倉田さんの気持ちの問題。」倉田さんはおそらく、哲とのことについて、誰にも相談できなかった。クローゼットだと言っていたから、哲の存在を知っているとしたらゲイバーに出入りしている人たちぐらいなものだろうが、話を聞く限りでは哲以外とは一夜限りの関係だったはずで、その相手にそんな話はしないだろう。それから、奥さんにも離婚を切り出す時に話したかもしれない。けれど、奥さんこそ哲のことなど相談できるはずがない。だから和樹を頼ったんだ。和樹ならまっすぐ倉田さんにぶつかっていくから。嘘のない言葉で、倉田さんの未練を断ち切ってくれるから。――倉田さんは俺たちよりずっといろんなしがらみ抱えてたんだよな。あの人は大人だから。
「おっさんのくせに、俺に引導渡されてどうするんだっての。散々こっちをひっかきまわしてさ。」和樹が倉田さんをおっさん呼ばわりする。自分もさんざんそう呼んできた。元は哲がそんな風にあの人をからかったから、俺たちまでそんな風に言うようになってしまったのだけれど、10歳の差はちょうど自分と渉先生の年齢差と重なる。彼が生きていれば倉田さんのような「大人」になっていたはずで、けれど決して渉先生をおっさんとは呼ばなかったことだろう。そんなことが脳裏をかすめていると、和樹が続けた。「……まあでも、哲も落ち着いたみたいだし、ようやくあの2人のいざこざも解決したってことかな。」
「ああ。」そうだ。ようやく倉田さんは哲を「送り出せた」のだ。あの後、哲は俺に寄り道しかけたりもしたけれど、それはきっと、哲もまた倉田さんとの関係を共有できるのが俺しかいなかったからで。俺を通すことで、倉田さんとのつながりを断ちたくなかったんじゃなかろうか。
涼矢は再び歩き出す。和樹がそれに着いてくる。
新幹線の乗り場は、もう、目の前だった。
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