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第623話 Dear friends (4)
「カレー、飛んじゃった。マジ、ごめん。」哲は咄嗟に手元にあった紙おしぼりで拭こうとして、拭くべき個所が響子の胸元であることに躊躇した。それから「俺、おしぼりもらってくる。」と立ち上がり、取り皿やカトラリー、それと紙おしぼりの積まれたワゴンに向かう。そういったものはセルフサービスだったので、勝手にそこからおしぼりをいくつか抜き取った。
前後して涼矢も立ち上がり、ドリンクバーに向かい、哲とほぼ同時に席に戻った。哲がおしぼりを響子に渡し、涼矢は千佳にコップを渡した。ふくよかな響子の胸は、響子本人よりも千佳のほうが処置しやすそうだった。
「これ、ただの炭酸水。少しはシミが抜けるかも。」涼矢が言った。
「そうなの?」千佳はそう返事をしつつ、紙おしぼりをその炭酸水で湿らせて、ブラウスの生地をひっぱりながらシミを拭く。
「叩くみたいな感じでやるといいと思う。」
「こう? ……あ、本当、ちょっと薄くなったかも。」
「変なこと知ってんだな。」と哲が言った。
涼矢は哲には返事せず、響子に言った。「でもそれ、応急処置だから、後でもういっぺんちゃんと洗剤で洗って。」
「うん、ありがとう。助かっちゃった。」響子は笑顔でそう言った。そもそも、カレーが飛んできても一度も不快な表情は見せていない。
「透ける?」千佳が小声で響子に言った。ブラウスが濡れたことで下着が透けてしまわないかと気にしているようだ。
「大丈夫よ、ここだけだし、すぐ乾くわ。ごめんね、お騒がせして。」おっとりと響子が答えた。
「いやいや、俺だし。」さすがの哲もバツが悪そうだ。
「スプーンは振り回さないのよ、哲ちゃん。」千佳が母親のような口調でたしなめた。
「はぁい、すみません。」哲のほうはちっとも反省していない口調だ。それから3人を見回して「みんな母親みたいだな。」と言って笑った。
「はあ?」と不機嫌な声を出したのは涼矢だ。「今、俺のことも見たな?」
「響子は優しいマドンナって感じだろ。千佳は躾に厳しい、しっかり者のお母さん。涼矢はシミ抜きのコツも知ってるカリスマ主婦。」
「カリスマ主婦。」響子と千佳が声を揃えて笑った。
「おまえみたいなバカ息子を持った覚えはねえよ。」
「そんなこと言うなよ、涼矢ママ。おまえ人の世話すんの、結構好きだろ。」
「おまえの世話はしねえよ。」
「都倉くんだけか。」
「馬鹿じゃねえの。」
「都倉くんって言うのね。」と千佳が黒目がちの目をくるくるさせた。「都倉、何くん?」
「和樹。」と答えたのも哲だ。
「個人情報。」涼矢は哲の脇腹を肘で突いた。
「和樹くんかぁ。カズくんとかって呼んでるの?」千佳は構わず聞いてきた。
カズくん。それはかつて川島綾乃が和樹を呼んでいた呼び方だ。嫌な思い出を打ち消したいがあまりに「いや、ただ和樹って呼んでる。」と正直に答えた。
「そう言えば、久しぶりに聞いたわ、哲ちゃんが涼矢くんのこと、涼矢って呼ぶの。前はそう呼んでたのに、いつからか田崎って呼ぶようになってたでしょ?」
響子の指摘の意味が一瞬分からなかったが、「カリスマ主婦」のくだりで、涼矢と呼ばれたのを思い出した。
「その和樹くんがね、嫌がるわけよ。俺が涼矢って呼ぶのを。」
「だからさ、おまえ、いいかげんにしろよ? なんでもかんでもバラしやがって。」
「別に秘密にすることでもないだろ。仲良しの証拠なんだしさ、いいじゃん。」
「実はね、うちの彼氏も嫌がるのよ。哲ちゃんたちに響子って呼び捨てにされること。」
「そうなの?」と哲が言う。シミを作った責任を感じているのか、響子には若干殊勝だ。
「たまにスマホチェックされるんだけど、その時に、呼び捨てされてるのを見て……でも、ちょっとよ。本気では怒ってないから、大丈夫。私だけじゃなくて千佳も呼び捨てだしね。」
「スマホチェックされてるの?」千佳が言い出した。
「うん。されてるって言うか、お互いによ。私も彼の見せてもらうから。」
「えー、私はやだな。彼氏彼女でも、プライバシーはあるのに。」
「俺、そんなんされたらマジで修羅場になってたな。」哲が笑った。
「されてなくても修羅場になってただろ。」と涼矢が突っ込んだ。
「アハ、そうだった。涼矢のとこも、しないだろ、スマホチェックなんか。」哲はもう「涼矢」呼びを改める気はなさそうだった。
「しない。」そんなこと、思いつきもしなかった。ただ東京に行った時、和樹が涼矢のスマホを勝手に取り上げて写真を撮ったことがあった。和樹の部屋での、本当のプライベートな、ツーショット写真。キスの瞬間の写真も撮った。その上、動画まで。そんなことを芋づる式に思い出しては、千佳たちに見せたのが遊園地の写真で正解だったと思い直した。いくら肩を組み頬を寄せ合っていようと、あれは人前で撮られた写真で、多少なりとも「見られても仕方ない」と割り切れる写真だった。現にカノンたちにも見られている。
そうだ、それから、そうやって、部活仲間については、女子も含めてエミリにカノンと、呼び捨てにしていた。だからつい、千佳や響子も、哲につられて違和感なくそう呼ぶようになっていたのだ。
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