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第630話 旅立ちの日 (3)
「そんなことないよ。」哲は2本目のスティックシュガーをコーヒーに入れる。「田崎には止められなかったの?」
「見送りなんかする必要ないって言われたよ。」
「だよね。」
「……聞いていいのか、分かんないけどさ。」
「ん? 何でも聞いて?」哲はアイドルのようにわざとらしい笑顔を作った。
「倉田さん……は、知らないの? 留学のこと。ていうか、もう、あれっきり?」
「あれっきりこれっきり。なぁーんにもないよ。」
「そう、か。」
「都倉くんとこにも何も言ってきてない?」
「来ないよ、来るわけないだろ。」
「そう? あの様子じゃあ、かなり本気で気に入ってたと思うんだけど。ま、ヨウちゃんの好みとしては、もう少し小柄なほうが……でも、都倉くん、性格が可愛いから。」
「何言ってんだよ。あの人はおまえのこと。」
「あのさぁ、俺のほうが振られたんだから、あんまり蒸し返さないでほしいよね。」
「でも、倉田さんは嫌いになったわけじゃなくて、おまえのためを思って。」
「じゃあ仕方ないじゃん。」
「えっ?」
「好きだろうが嫌いだろうが、俺のためだろうがなんだろうが、ヨウちゃんは俺と別れるって決めて、実行した。それだけのことだろ? 何も変わんないよ。」
「……。」和樹はコーヒーを飲んだ。哲のミルクも砂糖もたっぷり入ったコーヒーを眺めながら飲んだものだから、脳が甘ったるい味を想像してしまっていて、予想外のブラックの苦みにむせた。
「大丈夫?」と哲が心配そうに言う。
「ああ、悪ぃ。」
ひとまず和樹の呼吸が整うのを待って、哲は言った。
「都倉くんが俺のこと心配してくれてんのは分かってる。でもさ、過ぎたことは仕方ないし。ヨウちゃんの気持ちを変えられるのはヨウちゃんだけだ。」
「倉田さんの気持ちじゃなくて、哲はどうなの。倉田さんのこと、今でも好きなの?」
「好きだよ。」
和樹は頷いた。何が解決したわけでもないのに、ホッとした。だが、それも束の間のことだった。哲は続けた。「前に話した義理の父親も好きだし、涼矢も好きだよ。」
「は?」和樹は思い切り不愉快そうに顔を歪めた。
「だから、父親と。」
和樹は続きを遮断した。「涼矢っつったか、今?」
「ああ、ごめん。つい。」哲は言葉とは裏腹に飄々とそう言う。
「つい?」
「涼矢って呼んでも、嫌がらなくなったから。きみの彼氏。」
和樹はムッとして口を硬く結ぶ。
「そんな顔しないでよ。心配するようなことは何もない。だから今だってここにいるんだろ? あったらあいつが都倉くんをここに来させるはずがないだろ?」
「どうしておまえはそうやって、引っ掻き回すわけ?」
「だよね。自分でも呆れちゃう。」
「だよね、じゃねえよ。何が面白い?」
「面白がってないよ。ただ、都倉くんがあんまりなんでもかんでも簡単に手に入れるから、ちょっとムカつくだけ。」
「なっ……。」
「ごめんね。」哲は優しい表情を浮かべた。「今言ったことは本音だよ。でも、都倉くんのことも、ムカつく以上に好きだから、きみたちを引っ掻き回すのはこれでおしまい。」
「なんだよ、一方的に言いたいこと言いやがって。」
「はは。もうすぐ空の上だからね。今がチャンスかと思って。」
何か言い返したくて気色ばんだ和樹は、ふと哲の前に置かれた一冊の本に目を止めた。待ち合わせ場所のこのカフェに和樹が着いた時に、先に到着していた哲が読んでいた本。ちらりと目に入ったのは横文字だ。
「それ、英語の本?」
「あ、これ? そう。飛行機の中で読むつもりだったけど、待ってる時、暇だったから。」
「読めるの?」
「ストーリー知ってるから、分かりやすいよ。題名ぐらい聞いたことあるんじゃない?『賢者の贈り物』。」
「ああ……。クリスマスの話だっけ。」
「そう、貧乏な夫婦がプレゼントをしあう話。」
「哲らしくない。」
「そう? 俺にぴったりだって言われたけど。」
「誰に?」
「この本くれた子の友達。ああ、その時、田崎もいたな。田崎と友達2人とで、俺の留学頑張れ会やってくれて。もちろん田崎はただ呼ばれてきただけだけど。聞いてなかった?」
「聞いてない。」毎日のように連絡を取っていれば、かなりささやかな出来事だって話す。哲の頑張れ会よりもささやかなことだって。だとすれば、涼矢はこの件を意図的に話さなかったのだろう。……話さない理由は分かる。自分がその立場でもそうする。それでも今こうしてそれを哲から聞かされれば、何とも言えない苛立ちを感じた。「別に、なんでもかんでもいちいち報告するわけじゃないからな、お互いに。」俺と涼矢の間では、哲の話題など大したトピックではないのだという皮肉をこめてそう続けた。
哲はそれには答えず、本の表紙を撫でて、ふふ、と笑った。
自分の皮肉を馬鹿にされた気がして、「なんだよ。」と和樹は言う。
「俺にぴったりだし、俺らしくないんだろうな、この話。」
「は?」
「まあ、いいや。」哲は立ち上がった。「今日はありがと。」
「え、時間まだあるよ?」
「いいよ。ギリギリまでつきあったら遅くなるだろ? 俺と別れるのは名残惜しいかもしれないけど。」
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