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第631話 旅立ちの日 (4)
「んなわけないだろ。」名残惜しいなどという好意的な感情はないが、不完全燃焼のような思いは残る。結局哲は何を考えていて、何を求めているのか、なにひとつ理解できていないままだ。言いかえれば、哲のどこが涼矢をとらえて離さないのか、分からないのだ。確実に哲は涼矢の「何か」ではあるはずだ。そして、涼矢を前にすれば、哲なんかのどこがいいのかと責めながらも、同時に哲を見放さないでやってくれ、と言ってしまう自分も理解できない。
店を出ると、哲はもうここでいい、と言い、手に持っていた本をバッグにしまった。開いたバッグの中にパスポートらしきものが見えて、和樹は興味本位に「それ、パスポート?」と聞いた。
「うん。……もしかして初めて見る?」
「ああ。俺、海外行ったことないから。」
「そっか。俺も高校の修学旅行で行っただけだけど。」言いながら、哲はパスポートを見せてくれた。
「ってことはこれ、高校の頃の哲か。」とはいえ、今とあまり変わらず、冷やかすこともできない。今は少し茶色く染めた髪が黒い、その程度の違いだ。名前の欄のSATOSHIという綴りを見て、和樹は哲の本名を思い出す。無意識に「さとし。」と呟いた。
「3人目。」と哲は笑った。
「えっ?」
「親と先生以外で俺のこと本名で呼んだ人。でもま、いいよ、都倉くんなら許そう。」何故だかふんぞり返って哲は言う。
「なんだよ、許すって。」
哲は曖昧に笑うばかりで答えず、和樹から返されたパスポートをしまった。「んじゃ、本当に今日は、わざわざありがとな。」と言って手を差し出す。
和樹は反射的にその手を握った。なんで哲と握手なんかしてるんだ、と自問自答しながら。「ま、元気で。」
「おう。」
最後はそんな短い言葉だけ残して、哲は立ち去って行った。
離陸する飛行機を見てみたい、とも思ったけれど、試験期間中に無理を押して来たのだ。しかも、涼矢の誕生日だというのに。和樹はおとなしく帰ることにした。
深夜ではないものの、電車の窓の外は暗い。暗いけれど賑やかな夜景で、星なぞは見えない。焦点を近くに合わせるとガラスに自分の顔が映った。気の抜けたようなツラだ、と和樹は思う。
和樹はおもむろにスマホを取り出した。
[今、哲を見送った帰り]
涼矢からはすぐに返信が来た。
[本当に行ったんだ。あれ? 深夜に発つんじゃなかったっけ]
[俺の終電、気にしてくれて、早めに別れたから]
[そうか。おつかれ]
和樹が返事を入力する前に、涼矢が続けてメッセージを送ってきた。
[それより、ピアス届いたよ。ありがとう]
[日時指定したからな]
和樹が「誕生日おめでとう」のスタンプを送ると、涼矢からは「ありがとう」のスタンプが返ってきた。
[和樹も同じデザイン?]
[当然]
[もう着けてる?]
[おまえの手元に届いてからと思って。だから、まだ]
[そっか。着けたら、写真送って]
[うん 家に帰ったらな。そっちも送って]
[了解]
[着いたらまた電話するよ]
[うん]
涼矢とのやりとりはその程度で切り上げて、和樹は再び窓越しに流れていく夜景を見た。
『都倉くんがあんまりなんでもかんでも簡単に手に入れるから、ちょっとムカつくだけ。』
哲の声が蘇ってきた。そうまで言われるほど妬まれる覚えはないのに、と和樹は思う。それからあの英語の本。「賢者の贈り物」だったか。哲にぴったりで、それでいて哲らしくない物語、とはどういう意味なのか。涼矢なら分かるのだろうか。
和樹は乗り慣れない路線の電車を乗り継いで、いつもの駅まで戻ってきた。帰りがけにコンビニに寄り、翌朝用のパックの牛乳を買った。レジ横のホットスナックを見ると小腹が空いた気がして、ついでにアメリカンドッグも買った。店員に袋は別々にお入れしますか、と尋ねられて、そうしてくださいと答えた。
――冷たい牛乳と熱いアメリカンドッグだぞ。常識的に考えて別々だろ。頭悪いな、こいつ。
自分と大して年の変わらない見た目の店員について、そんな悪態が思い浮かんだが、当然、口には出さない。
和樹はコンビニの外に出て、自宅アパートに向かう。途中で細い道に入っていく。人通りもまばらになったところで立ち止まった。急に腹が減ったのだ。手にぶら下げたレジ袋のひとつからアメリカンドッグを取り出し、添付のケチャップとマスタードをかけた。行儀悪いのを承知で、それを頬張りながらまた歩き出す。
軽くなったアメリカンドッグの袋が、歩くたびにシャカシャカと音を立てた。今は使い終わったケチャップとマスタードの袋だけしか入っていない。シャカシャカという音を聞きながら、和樹は気が付いた。
――そっか、店を出たらすぐ食べるような人は、別々の袋にする必要はないかもな。
あの店員を『頭悪い』なんて思って悪かった、と思う。
そのホットドッグは、家に着いた頃には食べ終わっていた。牛乳を冷蔵庫にしまい、残った棒と入っていたレジ袋を捨てた。
それから簡単にシャワーを浴びて部屋着に着替え、ピアスを新しいものに交換した。斜めを向いてピアスを強調している自撮りを済ませると、スマホを手にしたままベッドの上に寝転んだ。
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