637 / 1020
第637話 phone call (6)
「人を好きになるってさ、すごくエネルギーが必要で。俺は、おまえが思ってるほど大人じゃないから、今は涼矢のことしか考えてやれないんだ。ごめんな。」
そんな言葉が口から出た。正直な気持ちではあるが、直接的過ぎたかもしれない。言った矢先に後悔した。
案の定、明生の顔色が変わる。「な、何のこと言ってるんですか。」
本当に言葉の意味が分からないのなら、そんなに動揺したりはしないだろう。かわいそうなことをしてしまった。明生は何も悪くないのに。俺に何の要求もしていないのに。ただそっと好意を寄せていただけだっただろうに。――でも、いつか気持ちが溢れてしまったら。俺はそれが怖い。涼矢のそんな告白は受け止めてやれたけれど、それだって結果論でしかない。
和樹は明生の顔をもう一度見た。こわばった顔だ。怒っているようにも見える。明生のそんな表情は今まで見た覚えがない。追い詰めてしまったのか。
「わかんなきゃわかんないでいいんだけど。」こんなセリフは「逃げ」だ。そう分かっていたが、明生の気持ちを更に追及することも、言ってしまった言葉をなかったことにもできなくて、そう言った。それ以上明生の顔を見るのも辛くなり、徒にデスクの上の書類を片づけた。
和樹は、明生がうなだれてしょんぼりと帰っていく姿を想像した。いつもの明生なら、思うようにならなかった時にはそういった態度を取っていたからだ。ところが、明生は和樹に食ってかかってきた。
「ぼ、僕、何かしましたか? 何も言ってないし。なんでそんなこと、いきなり言われなくちゃなんないんですか。」
普段おとなしい人間がこんな風に豹変すると言ったら、よほどの侮辱を受けた時か、痛いところを突かれて、いわゆる「逆切れ」をした時だ。今の明生はどちらなのだろう。……どちらも、かもしれない。せっかく明生は気持ちを封印して、「先生と生徒」という関係を壊さぬ努力をしてくれたというのに、それを俺がぶち壊したんだ。
どうしていいやら分からず、和樹は視界の端に入ってきた夏期講習のパンフレットにかこつけて、夏期講習は申し込んだのか、などと話しだした。
明生だって引っ込みがつかなくて困ってるかと思ったが、そんなことはなかった。「なんで話、変えるんですか。」と食い下がる。和樹は思わずため息をついた。こんなことになるなら、菜月のほうがまだ何倍も扱いやすい。「難しいのは、女の子だけじゃないのか。」思ったことがつい、そのまま口をついて出てしまう。
だが、考えてみれば当然のことだ。涼矢にだって何度も言われていた。こどもだからって何も考えないわけじゃない。傷つかないわけじゃない。適当に言いくるめられると思うほうが間違っていた。「いや、悪い。ごめん。俺が全面的に悪いわ。こんな時に、こんな風に言うことじゃないな。明生の言う通り、おまえは何もしてないのにな、変なこと言って、ごめん。」
明生は口をグッと真一文字に結んで、和樹の真意を確かめるように見つめてきた。普段の、好意の視線ではない。睨む、と言ったほうが正しい。それから「別に、もういいです。」と言うや駆け足で教室に戻り、バッグをつかむと、そのまま塾を出ていった。先生、さようなら。いつもなら恥ずかしそうにそう言ってペコリと会釈して帰っていく明生が。
「ああ、もう。」和樹は苛立たしげにボールペンを放り投げた。苛立っているのは明生に対してではない。自分に対してだ。かつての涼矢のような思いはさせまいと思っていたのに、結局明生を傷つけてしまった。
――でも、まだ、マシだろ。涼矢の、あの初恋の先生のしたことと比べたら。
和樹は涼矢が自身の初恋を語った時のことを思い出していた。その過去にいる昔の涼矢を救ってやりたかった。俺がその時おまえに出会っていれば。俺があの先生だったら、絶対におまえを悲しませなかったのに。その思いを、明生に重ねていた。明生を大事にしてやることが、かつての涼矢の慰めになる気がしていた。それとこれとは違う。明生くんと俺とは違う。涼矢はそう言うのだろうけれど。
――まだ、取り返しは、つくだろ? なあ、涼矢。俺は明生に、おまえみたいな辛い思いなんかさせたくない、それだけなんだ。どうしたらいいか、教えてくれよ。
心の中ではそう言うものの、涼矢にこそ言いたくない。頼るわけにはいかない。これは俺の問題だ。和樹はそう思った。
和樹と明生がそんなことになっているとはつゆしらず、その日の晩も、涼矢はいつも通りに自室で音楽を聞きながら勉強していた。
――そろそろ風呂にでも入るか。あ、先に和樹に電話するかな。
勉強が一段落したところで、そんなことを考えていると、スマホがメッセージを受信した。午後10時。疑うことなく和樹からの連絡だと思って、送り主を確認せずにそれを開いた。
[都倉先生に何か言いましたか?]
涼矢の目に飛び込んできたのは、そんな文面だった。
ともだちにシェアしよう!