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第642話 phone call (11)
自分から連絡を取っても構わないのは知っている。普段ならよくそうしている。だが、今日は、どうも明生のことが頭から離れなくて、涼矢の声を聞いたら全部暴露してしまいそうだった。その挙句には「どうしたらいい?」などと涼矢に頼って、自分の失態の尻拭いをさせる羽目になりかねない。だから、素っ気ないメールで都合がよかった。
一晩明けても、怒って塾を出て行った明生の後ろ姿は忘れられないままだった。
『普通に、それまで通りに接してくれるのが一番いい。』涼矢はそう言っていたのに。でも、どうしても、気付かない振りも耐えがたくなってしまったのだ。明生のためじゃない、自分のためだった。
「はあ。」和樹は頭を抱えた。今日の授業でも明生に顔を合わせる。どうしたものか。
答えが出せないまま塾へ向かう。なるようになれ、だ。明生を怒らせたのは自分のせいだけれど、謝るものでもないと思う。間違ったことを言ったつもりはない。ただ、言うタイミングと、使った言葉はよくなかったかもしれない。とりあえず今日のところは、塾講師としての義務を果たすだけにして、それ以上のことで明生に関わるのはやめよう、と思う。
だが、気にすまいと思えば思うほど、やけに気づいてしまうもので、塾のIDカードをリーダーで読み取らせるところからずっと、和樹は明生を目で追ってしまっていた。今も菜月と何やらしゃべっているのを視界の端にとらえている。菜月が教室に戻る気配を見せたから、慌てて目をそらした。
授業の時も指名をしないでやり過ごした。今日は昨日のテストのいくつかを例題として解説をするような授業だったから、そもそも誰かを指名して答えさせる場面も少なく、明生本人は何か思うところはあるかもしれないが、他の生徒は和樹と明生の間の緊張感には気付かないだろう。
そうして、この日の授業は無事に一通り終えた。これで明生が大人しく帰ってくれれば、とりあえず本日のミッションはコンプリートだ。
和樹が講師用のデスクに戻ると、小嶋が見慣れない冊子をぱらぱらとめくっていた。夏期講習のテキストのようだ。和樹の視線に気付くと、小嶋は印刷ミスなどがないかを確認してるのだと言った。
「講習、今年はなかなかみんな熱心で、受験じゃなくても申し込む子が多いね。でも、1年生は何人かまだ申し込みがないから、一応都倉先生からも、もう一度、なるべく受けるように言ってください。申し込み状況は菊池さんに聞けば分かります。」
「はい。」菊池のところに行くと、菊池はすぐに申込書の提出状況のリストを見せてくれた。蛍光ペンで色分けされて、入金状況まで一目で分かる。
何の印もない子の中に、明生の名前を見つけた。それから、菜月の名前は二重線で消されている。菜月はつい先日、今月で塾を移ることに決まったのだ。ここのような補習メインの塾ではなく、受験に特化した進学塾だ。それを勧めたのは久家で、和樹はライバルに客を譲るようなものではないかと思ったが、そんなことも含めて生徒第一というのがこの塾の方針らしい。そういう評判を聞いて、あえて進学塾ではなく、面倒見の良さそうなこちらに入りたいという需要もあるというから、損ばかりでもないようだ。
和樹が自席に戻ると、中3生が質問に来た。一通り教えてその生徒が立ち去ると、その子の陰で見えなかったところに、明生がいた。明生はいつもより元気がなさそうだったが、それでもペコリとお辞儀をしてきた。
今だ、と和樹は立ち上がる。本意ではないにしろ、お辞儀をしてくる程度の社交辞令ができるなら、明生も一晩経って気持ちが落ち着いているのだろう。和樹は明生の前に立った。「夏期講習、どうするんだ? 1年でも、ほとんど全員参加するぞ。」さっき仕入れた情報が役に立つ。
「せ……先生は、どのタームですか。」
夏期講習の日程は、前期、中期、後期と、3つのタームに分かれていて、全部通しで参加することもできたし、ひとつだけ選ぶこともできた。内容はそれぞれ、1学期の復習、2学期の予習、テストを繰り返す実践と言ったところだ。和樹は中期と後期に入ることになっていた。
和樹には、明生の質問の真意が測りかねていた。今の明生はいつもより険しい表情だが、それでいて頬を赤くしている。あんなことを言ってもまだ追いかけてくる気なのか。それとも、俺の顔など極力見たくないのか。「俺の担当するタームにするの? それとも、俺のタームは避けたいわけ?」他の誰にも聞こえないようにそっと尋ねた。
「先生のタームにします。先生に会えるんでもなきゃ、夏休みまで勉強したくない。」
明生の口調は怒っているかのようだが、その内容は熱烈なラブコールだ。「……参ったな。」和樹は天を仰ぐように上を向いた。同年代の子から告白されるのならまだ対応のしようもある。だが、ついこの間までランドセルを背負っていたような子にどうしていいか分からない。和樹はあくまでも「塾の先生」であることを自分に言い聞かせた。「俺がおまえの学習意欲に役立つなら嬉しいんだけどさ。」
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