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第643話 phone call (12)

「菜月だってそうでしょ。なんで僕だけ。」明生は口をつきだして不満を言い募る。 「菜月は関係ないだろ。それにあの子、塾移るってよ。だから、ここの夏期講習は来ないよ。」 「えっ?」 「もっと受験向きの、大手の進学塾に移るんだよ。まあ、あの子成績いいし、競り合ったほうが伸びるタイプだからな、ここよりそっちのほうがいいと思う。……なんて、ここのバイトの俺が言っちゃだめだけど。」  明生の眉が少し下がり、さっきまでのような怒り顏ではなくなった。「先生、淋しい? 菜月がいなくなったら。」 「そりゃそうだ。」 「僕だったら? もし僕がここ辞めるって言ったら?」 「淋しいに決まってる。」その時、森川が「都倉先生、お電話です。」と声をかけてきて、会話は中断された。和樹は、ふう、とひとつ溜め息をつく。「俺は中期と後期。でも、おまえは復習やったほうがいいぞ。」早口でそう言うと、良かったのか悪かったのか分からないタイミングでかかってきた電話に向かった。  明生からのメッセージが再び涼矢の元に届いたのは、前夜よりは早い8時を少し回った頃だった。涼矢は夕食を取っていた。佐江子は不在だったので、ごく簡単な丼料理だ。右手に箸を持ったまま、着信を示すスマホの画面を左手でタップした。 [昨日はありがとうございました。今日塾で先生に会ったけど普通に話せました]  礼儀正しい文面と、その内容に顔がほころぶ。[よかった]とすぐに返事した。  その後、明生は和樹の夏休みの予定を尋ねてきた。ポン太を送り届けるついでの帰省と、8月後半の涼矢の上京。今のところ決まっているのはそれぐらいだけれど、明生に逐一伝える筋合いはないと判断して、涼矢は答えをはぐらかした。すると、逆に明生のほうから新しい情報がもたらされた。 [先生、8月6日~9日と、21~24日は東京にいるはずです]  8月の24、5日までは夏期講習が詰まっているとは聞いていたものの、詳細な日程は聞いていなかった。だから、本来なら教えてくれた明生には礼を言うべきだろうが、「恋人」としての尊厳が損なわれる気がして、あえてトボけて知らない振りをした [なんで] [夏期講習だから。僕も先生も。僕は7月にもあるけど(涙)]  明生からはそんな素直な返事が来て、少々反省するが、かといって今更「教えてくれてありがとう」と言うのも変な気がして、[なるほど]とだけ返した。  翌々日も、そのまた数日後も、明生からのメッセージは送られてきた。決まって和樹の塾バイトの日だ。塾で交わした和樹との会話、和樹が髪を切ったこと、その髪型を例の菜月なる女の子が「前のほうがいい」と批判したこと。そんな他愛もない話題ばかりだ。  しかし、何回かやりとりしているうちには、和樹関連のネタも尽きてきたらしく、しまいには飼い猫の話まで寄越してきた。他人の飼い猫に興味津々、と言えば嘘になるが、2、3往復の短いメッセージ交換で満足するようで、涼矢としてもそう負担にもならなかったし、煩わしいとも思わなかった。そのうち、和樹が塾バイトのはずの日に、明生からの連絡がなかなか来ないと心配さえするようになった。  明生の身も心配だし、このまま待っていては、また和樹との毎夜の会話の時間もズレこんでしまう。待ちきれずに涼矢のほうから[今日塾の日だよね? 風邪でも引いたの? 大丈夫?]と聞いた。  返事はすぐに来て、特に書くことがなかったから何も送らなかったのだ、という内容だった。いつもくだらないことばかり書いてすいません、などと、殊勝なことまで言う。  社交辞令のようなその言葉に、涼矢も"大人らしく"返事をした。 [体調崩したんじゃなくてよかった。月水金は明生くんからのメッセージ楽しみにしてるんだ]  100%社交辞令ではないけれど、本音を言えば、特別なことでもない限りは週に1回ぐらいでいいんだけどな、と内心思う涼矢だった。  和樹のほうは、一時は関係がギクシャクしかけた明生が、自分の勧める通りに夏期講習を、しかも全タームを受講すると申込書を持ってきたことに喜んでいた。だが、一方では早坂に呼ばれ、言葉遣いについての注意を受けてしまい、少し落ち込みもした。 「最近、特に中1生に対して、友達のようになりすぎているように見えます。親しみのあるお兄さん的な存在として振る舞うことは悪くありません。ですが、都倉先生はあくまでも『先生』です。節度ある態度をお願いします。生徒は苗字に『さん』、もしくは『くん』をつけて呼ぶ。生徒には都倉先生と呼ばせる。これは徹底してください。」 「はい、分かりました。」 「それから先生の休憩時間すべてを、生徒の相手に費やすことはありません。そのせいで仕事を後回しにして結果的に残業しないように。」 「あ、でも、そういう時は、タイムカードは残業にならないよう、定時に打刻して……。」 「だから言ってるんです。それはサービス残業です。私は残業しなくていい分量の業務しか都倉先生にお願いしていないつもりです。」 「でも、質問に来た生徒に答えないわけにはいかないですよね。」

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