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第644話 phone call (13)

「はい、しかしながら、把握している範囲では、都倉先生の場合は質問対応より雑談をしている時間が多いです。先生の昨日のラッキーアイテムはオレンジ色の靴でしたかね。休み時間に先生の元に来る生徒の8割は、そういった話題だけをしているように見受けられます。都倉先生が親しみやすいことの表れではありますが、度が過ぎて盛り上がれば、本来の質問をしたい生徒が話しかけづらくなるでしょう。」 「……気を付けます。」  そんな経緯があり、和樹は明生をかしこまって「塩谷くん」などと呼ばねばならなくなった。そう呼んだ瞬間に、彼の目が絶望的に暗くなるのを見て、和樹はようやく再構築できた明生の信頼を裏切ったような気がした。違うんだ、これには事情があって。――そう言い訳したくなるけれど、それもまた明生を特別扱いすることにはならないだろうか。考えれば考えるほど身動きの取れないムカデのようになる和樹だった。  涼矢との電話でも、その落ち込みぶりは声にも出ていたようで、涼矢が「何かあった?」と聞いてきた。 「大したことじゃないんだけど。」 ――大したことじゃない何かがあったんだな? 「うん。……ちょっとね、注意されちゃった。塾のお偉いさんに。」 ――注意? 「そんな深刻なことじゃないんだ、ただ、ほら、俺、ガキんちょ相手だと、気が緩むっていうかさ。いまだに自分がセンセイって自覚、あまりなくて、つい、友達みたいにしゃべっちゃって。」 ――ダメなの? 「最初の時にも言われたんだよね。あだ名で呼びあったりするなって。あくまでも先生と生徒は、対等な友達ではないからって。でも、最近は塾にも慣れてきたせいで、そういうとこ、ルーズになってたから。」 ――自分でもマズかったなって思ってるんだ? 「思ってるよ。だから塩谷……明生のことも、今更塩谷くんって呼んでる。あいつだけじゃなくて、他の子もそうしてるんだけどさ。まあ、確かに授業は前より落ち着いてるし、やっぱり教室長の言うことが正しいんだと思う。ちょっと調子に乗り過ぎた。」 ――先生業もいろいろ気を使うもんだな。 「おまえもそのうち先生って呼ばれる仕事するんだろ。」 ――俺は逆に、相手をすげえ緊張させそう。それも問題だよな。 「自分で分かってりゃ大丈夫だ。」 ――和樹も、だろ。そうやってきちんと反省してさ、偉いよ。」 「偉くはない。だってね、アキオだのナツキだのって呼ぶほうが全然ラクなんだよ。お互い友達のノリだから。俺が板書の字を間違えても、カズキッちそこ違うよー、なんて言われて、でも、ゴメンゴメンで済んじゃうんだ。でも、そんな俺が、漢字ひとつ間違えてもテストじゃ致命的なんだぞ、うっかりミスなんて言い訳だ、正確に覚えろなんて言っても説得力ないわけで。……そういうのをね、きちんと分けて考えろって言われてるんだと思った。」 ――そっか。……でも、やっぱり偉いよ。そういう風に人の話に素直に耳を傾けて、反省するってこと、俺にはなかなかできないから。 「それは、おまえは人に指図される前に、ちゃんと自分の理屈があるからだよ。」  電話の向こうの涼矢が笑う。 ――2人で褒め合っちゃって、なんなんだろな。 「ほんとだ。」和樹もつられて笑った。「こんなんだから、柳瀬やエミリにバカップルって言われる。」 ――バカップル上等だよ。 「まあね。」 ――少しは、気が晴れた? 「うん。つか、元々そんなに落ち込んでたわけじゃないよ。」  涼矢はそれが和樹なりの虚勢だと知りつつも、「それなら良かったけど」と言った。  和樹とはそんな風に和やかに終わった会話だったが、それでは収まらない人物がいた。 ――都倉先生がひどいんです!  この日の明生からは、珍しく電話での会話を望むメッセージが来たので、涼矢は何事かと慌てて折り返しの電話をした。  二言三言会話して、そうシリアスな話でないことは分かって一安心はしたが、ただ、とにかく話を聞いてもらいたいのだと鼻息荒くする明生にたじたじとなる。 ――僕への態度、超素っ気ないっていうか。目もあんまり合わせてくれないし、今まで明生って呼んでたのに、塩谷くん、だって。  「ひどい」と訴える内容を聞いて、涼矢は数日前に聞いたばかりの和樹の話を思い出し、「ああ、そうか。」と呟いた。耳ざとくそれを聞いた明生が、何か知っているんですかと涼矢に詰め寄った。内容の軽重によらず、人から聞いた話を許可なく別の人に話す、というのがどうにも苦手な涼矢だったが、明生の勢いと和樹に対する誤解を解いてやりたいという思いから、重い口を開いた。 「塾のね、塾長さんかな? 一番偉い人。」 ――僕たちは教室長って呼んでます。 「じゃあ、その、教室長さんに注意されたらしいよ。生徒と馴れ馴れしすぎるって。人気があるのは結構だけど、名前呼び捨てや雑談はやめなさいって言われたって。明生くんだけじゃないんじゃない? 呼び方変わったの。」  明生のごく小さな「あ」という呟きと、少し長めの沈黙が、それが正しいことを表していた。 「和樹はコミュ力がありすぎて、誰とでも友達になっちゃうんだよね。でも、一応、先生と生徒だから。」 ――そっか……。

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