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第667話 泡沫 -うたかた- (11)
翌朝、涼矢は和樹に起こされた。涼矢は寝ぼけまなこで枕元のスマホで時刻を確認する。
「なんだ、まだ8時前……。」
「トイレに行こうと思ったんだけど。」
「行けば。」
「佐江子さんが帰って来てるみたい。」
「え。」涼矢は耳をそばだてる。確かに、階下に誰かいる気配がする。
「この状況で俺、会いづらくて。」
「……だよな。」
佐江子に無断で和樹を泊まらせたあの時。翌朝、先に起きてキッチンで麦茶を飲もうとした和樹は、半裸姿で佐江子と遭遇した。今となっては、そんな形ででも2人の関係を知らせることができたのは良かったと言えるが、あの時の気まずさは忘れがたい。そして、今、ちょうどあの時と同じような状況だ。
「でも、会わずにトイレ行けねえしな。」と和樹が言う。
「2階のトイレ使えばいい。」
「ああそう……って、あんのかよ。」
「普段使ってないけど、一応。」
「早く言えよ。」
「つきあたりの、ウォークインクローゼットの手前。右側のドア。」
「おう。」和樹は早速そのトイレに向かう。
確かにそこにドアがあり、開ければトイレだった。使っていないというのは本当のようだ。便座につながったコードの先端のプラグは抜かれたままで、洗浄ノズルや便座の温度の調整をするパネルのランプが消えている。
部屋に戻ると、涼矢はまた目をつぶって惰眠をむさぼっていた。和樹がその隣に滑り込む。ベッドが軋んで、涼矢が目を開ける。和樹に手を伸ばして、その頬に触れた。
「髭。」と一言言う。
「うん。」和樹も自分でその頬を触る。「2階用の洗面所はないんだよな?」
「それはない。トイレの中にある、あれだけ。」それは手先を軽く洗えるだけの、小さな手洗い場だ。
「なんで普段こっちの使わないの。」
「節電。省エネ。」
「それだけ?」
「それだけ。あと、掃除場所増やしたくないし。」
「トイレ掃除もおまえか。」
「いや、下はトイレ含めておふくろが。あの人、掃除だけは割ときちんとやる。2階はなんとなく俺と親父のエリアって感じで、基本、俺がやるけど。まあ、結局普段掃除するのはこの部屋だけかな。」
「……掃除ぐらいは、俺、やるよ。」
それがいつかの「2人暮らし」の話であることは、涼矢にはすぐに分かった。
「今もろくにできてないのに?」涼矢はクスッと笑う。
「やろうと思えばできる。」
「ほんとかよ。」涼矢は笑いながら横向きに体勢を変えて、和樹に腕を回した。「おはよう。」と言ってキスをした。「言ってなかった。」
「おはよ。」和樹からも迫る。
「痛い、髭。」涼矢がくすぐったそうにした。
「自分が生えないからって。」和樹はわざと頬と頬をこすりあわせる。
「やめ。」
顔をそむけようとする涼矢の頬を手で固定して、和樹はキスをした。「慣れてよ。だいたい毎朝こんな感じになるよ。」
「嘘、おまえんちにいる時はここまでじゃない。」
「あれは、夜、風呂入った時とかにも剃ってるから。丸1日放置したらこうだよ。」
「そうだったんだ。」
「そうだよ。」和樹は、今度はなるべく唇だけが触れ合うように気を付けて、もう一度キスをした。「知らないこと、まだいっぱいあるな。」
「和樹の髭の伸びるスピード?」
「2階のトイレも。」
「はは。」涼矢は再度スマホの時計を見る。「もう少ししたら、佐江子さん、出勤すると思うから。」
「俺来てるの分かってるのに、挨拶しないのってよくないかな。」
「関係ないだろ。休みの時は、俺、まだ余裕で寝てる時間だし。起きたら佐江子さん出てった後、なんてのは普通。」
「お寝坊さんだこと。」
「和樹は休みでも早起き?」
「涼しいうちにジョギングしてるから。」
「お、続いてるんだ。」
「うん。筋トレもな。」和樹は涼矢の手を取って、自分の腹部を触らせる。「涼矢くんが俺の筋肉好きだっていうから、ちゃんと鍛えてますよ。」
「ほんとだ、腹筋すげ。」
「そのうち、好きな飲み物はプロテインって言うようになる。」
「嫌だ、そういう奴。」涼矢は笑った。笑うとベッドが軋んで、和樹にも伝わる。
「肉といったら、鶏のささみしか食わねえの。」
「昨日、唐揚げ、山ほど食ったろ。」
「ああ、あれな。すげえ量だったな。ポン太が鬼のように食ってた。」
「柳瀬の分までな。」
その時、玄関からドアの開閉音が聞こえた。佐江子が出勤したのだろう。
「そういや、防音完備って言ってたけど、結構聞こえるよね? 下の音。」
「ああ、だって嘘だから。ピアノを理由に防音するなら、ピアノのほうを防音室に入れるだろ、普通に考えて。」
「……なんでそういう嘘つくわけ。」
「柳瀬の冗談がウザかった。つか、本気にしたんだ? 何度もここ来てるんだから、和樹は冗談だって分かってると思ってた。」
和樹は少しムッとする。「そう言うなら柳瀬たちだって何度も来てんだろ。」
「あいつらは大抵リビング止まりだもん。俺の部屋に入れること、めったにない。」
和樹は無言で涼矢に背を向けた。
「あ、すねた。」と涼矢は言い、和樹を背後から抱き締めた。涼矢は和樹の耳元に顔を寄せる。「俺らの暮らす部屋は、防音重視しような。和樹の我慢してない声、聞きたいから。」
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