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第669話 泡沫 -うたかた- (13)
「お姫様抱っこで風呂場まで連れて行ってやりたいけどね。」起きて早々、疲れ果てた様子の和樹に、涼矢は言う。
「今日はまじでキツかった……。」和樹はまだ枕を抱えている。そして、その枕ごと、涼矢に背後から抱かれていた。
「ごめん。暴走した。」
「いや、おまえのせいばかりじゃないから。」和樹はふう、と長く息を吐いた。
「ゆうべも無理させたって、反省したはずなのにな。だめだな俺、自制が利かなくて。」
「同じだよ。」和樹は枕をようやく手離して、半回転して涼矢に向き合う。「すげえ疲れてんだけど、すげえ気持ちいんだもん。あれはヤバい。」
「気持ち良かった?」
「うん。でも、動けねえ。」
「ごめん。」
「や、だから。」和樹は苦笑した。「話がループしてるな。」
「朝メシ、ここまで持ってきてやろうか?」
「お姫様みたいに?」
「そう。」
「まさか。」和樹はイテテテ、と呟きながらも、上体を起こす。「シャワーもしたいしさ。……ちなみに2階にシャワーは。」
「ないよ、悪いけど。」
「だよねえ。」
涼矢も起き上がり、先にベッドから下りた。「お手をどうぞ。」
「馬鹿、平気だっつの。」そう言いつつ、手をつないで、涼矢が先を歩いた。
「トイレはさ、もしかしたらここを事務所にする時が来るかもしれないからって。」
「え?」
2人はいつもよりゆっくりめに階段を下りる。
「佐江子さんが独立するとか。そういう時にね、下のリビングを事務所にリフォームして、残り半分と2階を居住スペースにできるようにって。そしたら下のトイレは事務所用になるだろうから、2階にもトイレ必要だろうって。後からトイレ増設するのは大変だから先に作っておいた、らしい。」
「独立するの?」
「いや、もう、たぶんしない。」
「もう?」
「ほら、俺がさ、なかなか生まれなかったから。」
「へ?」
「こどもが出来ないまま、夫婦2人暮らしになったり、もしかしたら別れるようなことになったり。そういう時にさ、自分の事務所持っていれば、佐江子さんも自分の食い扶持稼げるだろうって話。」
「ああ、でも、涼矢が生まれたから。」
「そう。生まれてからも手がかかったわけだし。自分が事業主やるより、雇われのほうが融通が利く感じだったんじゃないかな。」
「そうなの? 独立してるほうが好きにできそうだけど。時短でもフレックスでも好きにできるし。」
「持ち家より賃貸のほうが引っ越しやすい、みたいなもんだろ。まぁ、こんなこと、面と向かって話し合ったことないから、本当のことは知らない。」
「俺も親とそんな話したことねえなあ。」考えてみれば、父親の具体的な職務だってろくに知らない、と和樹は思った。商社マンだということは知っている。いわゆる中小企業だとは思うが、その組織の中でどういうポジションにいるのかも知らない。営業なのか総務なのかさえも。
バスルームの前までたどりついて、涼矢は「洗うの手伝ってやろうか?」と悪戯っぽく笑った。
「結構です。」和樹はつないでいた手を離し、脱衣スペースに入る。そして、涼矢の鼻先でピシャリと戸を閉めた。
シャワーを終えると、遅い朝食をとった。
「さっきの話さ。」和樹がトーストをかじりながら言う。「独立の。」
「ああ、それが何?」
「おまえがここに事務所構える可能性ってのは。」
「ないな。」
「ないんだ。」
「そうしたいって言えばできるかもしれないけど。」
「したくないの?」
「したくない。」
「あ、あれか。親の力を借りずに頑張ろうっていう。」
「それもないわけじゃないけど、俺、そういう面での意地は張らないほうで。利用できるものは利用させてもらう。」
「そういやそういうところ、あるよな。……でも、だったら。」
「和樹はそれでいいわけ?」
「へ?」
「俺がここに個人事務所を構えていいわけ?」涼矢はいつの間にか食事の手を止めている。和樹も慌てて口の中のものを飲みこんで、姿勢を正した。
「それは、えっと、おまえはここに住むってことになるのか?」
「そりゃそうだろ。」
「俺と住めないんじゃだめだな。あ、そしたら、近くに2人でアパート借りてさ、ここには通いで来るってのは?」
「……それは嫌だな。」
「なんで。」
「俺はこれでも、人目を気にする方なんだ。」涼矢は食事を再開した。和樹と視線を合わせたくないのか、やたらと手元のパンばかりを見ている。「おまえだって仕事しづらいだろ。ここが田舎だっての、忘れた? 隣に住んでる人の名前も知らない東京とは違うんだよ。」
「そうか。そうだな。」また軽率なことを言ってしまった。
しばらく会話が途絶える。ティースプーンやバターナイフが食器に当たる音だけが響く。
「あ。」和樹が突然声を上げる。
「今度は何だよ。」
「隣の人の名前、分かったんだ。」
「かぼすの人。」
「そう。その人。あんなうっすい人なのに名前が派手でさ。なんだっけな、ちょっと外国人みたいな。」自分の言った言葉で、あの時ポン太が繰り返した声を思い出した。それを聞いて、人の名前なのに外国語のように聞こえる、と思ったのだ。「ミヨカワケージュ。」
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