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第670話 泡沫 -うたかた- (14)

「え、何だって。」涼矢は聞き返す。 「ミヨカワ、ケージュ。」 「へえ。どんな字、書くの。」 「そこまで聞いてないけど、メモに書いて教えてくれるって。ちょうどこっちに来る時、偶然会ってさ。ポン太がいきなり自己紹介始めて、俺の名前教えちゃって、そしたら、向こうも名乗ってくれた。」 「おまえも名前書いて渡すの?」 「いや、そこまでする気ないんだけど……だめかな。失礼かな。」 「俺としては、まあ、あんまり、ねえ。親しくなってほしくはないような。」 「俺としても、そこまで親しくなりたくないというか。今までの距離感でちょうどいいと思ってたんだけど。顔合わせたら会釈する程度の、さ。」  涼矢はまた和樹から視線をそらす。「それは俺のせい、かな。」 「そうとも言うよね。」 「分かってるかな、俺たちのこと。」 「だと思うよ。つか、おまえだろ、おまえが腰に手を回したり、わざとそういうことするから決定打に。」 「あの時はね。」去年の夏。帰り際のことだ。人の名前は覚えなくても、和樹との間に起きた小さな出来事は忘れない。――どうしてそんなことをしたんだっけ。涼矢はその時の感情を思い出そうとする。さっき自分でも言ったように、元は他人の注目を浴びるようなことは苦手だし、ましてや和樹もろとも偏見の目にさらされるようなことは避けたいと思っている。でも、どうしてだかあの時、あの人に見せつけたかった。 「あんな気弱そうな人からかって、悪い奴だよ。まぁ、ああいう人だから、その後も普通に挨拶してくれてるけどさ。」  たとえばこの家で個人事務所を開くなんて真っ平だ。隣近所に知らない人なんかいない。田崎家は既に「ちょっと変わった家」として認知されているから、こちらが知らなくても相手がこちらを知っていることもあるだろう。佐江子などは特に、女だてらに弁護士稼業などをして、単身赴任で夫がいないのをいいことに毎晩のように飲み歩いている変な女、として位置づけられているのを涼矢は知っている。表札が2枚あるのだって愛人なのではないかと噂されたことがあることも知っている。ただ、夫婦してなんだか偉そうな肩書がついているから、面と向かって悪口を言う者がいないだけだ。柳瀬の母親は実家もこのあたりで、若い頃は地域でも有名な不良娘だったらしい。佐江子が彼女と馬が合うのは、そういった、地域社会にうまく溶け込めない者同士のシンパシーもあるのかもしれない。  それはともかく、そんな環境で自宅兼事務所を開設して、そこに和樹と一緒に住むなんて考えられなかったし、たとえ別にアパートを借りたところで、ここに仕事の基盤を持てば、やれ結婚はしないのかうちの娘と見合いしないかなどと、プライベートなことに介入してくるのが目に見えている。だからって、その種の人々にカミングアウトして理解が得られるとも思えない。ひとりひとりに懇々と説明して説得して回るわけにもいかない。変な女の息子はやっぱりおかしい、と結論づけられるのが関の山だ。百歩譲って、自分ひとりのことならそれでもいい。和樹や家族まで巻き込むことだけは避けたい。  それでも、あの隣人に。何と言ったか。……ミヨカワ氏か。その人にはあんな態度を取ってしまったのは何故なんだろう。東京にいたから浮かれて羽目を外した? 自分のコミュニティには属さない人だから安心してた? あの人こそ、感情を害したら和樹に迷惑がかかるというのに。幸いミヨカワ氏は、あの弱々しい外見を裏切らず、あんなことをしたからって和樹に嫌がらせをしてくるような人ではないらしいが。  あの気弱な目に似たものをつい最近見た気がする。そして、それにほんの少し苛立った覚えもある。 「明生くんに似てる。」と涼矢は呟いた。 「え、誰が。」 「ミヨカワさん、だっけ。」 「どこが? 全然似てないよ。年だって全然。」 「外見じゃないよ。気弱そうなところ。」 「そうか? 明生は結構強いけどな。おとなしいけどタフだよ、あいつ。」 「パッと見の印象。」 「そんなら、やっぱり見た目じゃん。」 「……そうだな。なんでそんなこと思ったんだろ。」  今朝、ベッドの中で思わず口にした明生のこと。それもどうしてあんな場面で彼の名を口走ってしまったのか。似ているのは、そういうところかもしれない。誰より和樹の近くにいたいと願っているのに、それができない自分。ミヨカワ氏は目下、物理的な意味で和樹の一番近くにいる存在だし、明生は「こども」で「生徒」という立場から、いくら和樹に好意を傾けても警戒されずに日々会える存在。  要は「羨ましい」のだ。自分がいたいポジションを占める彼らが。そして、それが完全な善意として和樹に受け入れられていることが。彼らの慎み深い態度が和樹にそう思わせているのだろう。  それをぶち壊してやりたい衝動に駆られるのだ。和樹は俺のものだと誇示したくなるのだ。弱々しさを武器にして簡単に和樹に近づくんじゃない、と追い払いたくなるのだ。和樹にも易々と騙されるなと言いたくなるのだ。だからあの日、ミヨカワの前で和樹の腰に手を回したし、だから今朝、明生にだって性的興味があることを匂わせた。  そこまでの結論に辿り着いてなお、涼矢は重ねて言った。 「全然似てないのにね。」

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