673 / 1020
第673話 泡沫 -うたかた- (17)
「おまえのスマイルはゼロ円。」と和樹が言う。相変わらず肩だの背骨付近だのをマッサージしながら。
「なんでだよ、俺のスマイルもプライスレス。」
「スマイルはゼロ円って相場が決まってんの。」
「ずるいなぁ、自分ばっかり。」
「はは。」最後にそう笑って、和樹は涼矢の背から降りる。
涼矢も体を起こし、和樹と肩を並べて座った。横を向き、和樹の顔を引き寄せて、キスをする。「このキスはいくら?」
「さあな。」
涼矢は立ち上がり、バスルームに向かって歩き出した。途中で振り返って、和樹に言う。「40,000円、貯金しておくよ。」
「バーカ。」
涼矢はニヤリと笑い、バスルームに消えた。
正午を少し回っても、2人はまだリビングにいた。時刻に気付いた涼矢がおもむろに立ち上がり、冷蔵庫を物色しはじめると、和樹が「昼飯なら要らない。」と言い出した。「一度帰るわ、うちに。」
「一度?」と涼矢が繰り返す。
「顔見せないと、おふくろの機嫌悪くなりそうだし。でも、すぐまた来るから。」
「ここに?」
「うん。だめ?」
「いいけど、だったら夕方帰れば? 今帰ったって、宏樹さんも留守だろ?」
「別に兄貴に会わなくても。」
「家族団欒するんじゃないの。」
「それが面倒だから。一番うるさいのおふくろだからさ、おふくろにさえ顔見せておけば、あとはどうでも。」
「そんでまたうち来て、泊まるの?」
「迷惑?」
「うちは構わないけど。ただ、佐江子さんも普通に出入りするよ?」
「昨日は会わなかったじゃん。」
「たまたまだし。あの人の予定って俺もあまり把握してないから。……いや、うちはともかく、問題はおまえんちだろ。」
「だからさ、おふくろさえクリアしたら平気だって。」
涼矢は黙りこむ。
「何か言いたいことがありそうだな。」と和樹が言う。
「……おまえがいいなら、いいけど。」
「よくないとしたら、どんな理由が? ただ自分の家に帰るだけのことなのに。」
涼矢はストンとダイニングテーブルの椅子に座る。ローソファの和樹とは、少し、距離がある。
「帰るのはいいよ。でも、なんて言って、またうちに来るの?」
「え、涼矢んちに行く。そのまま泊まる。……って正直に。」
「昨日のことはどう説明してあるんだ? 2晩も泊まるなんておかしいだろ。」
「昨日のことははっきり言ってないから、柳瀬のうちに泊まったことにでもするよ。」
「それにしたっておかしいよ。わざわざ帰省したのに、そんな、友達の家を渡り歩くなんて。」
「そうかなぁ。」
「そうだよ。」
今度は和樹が考え込む。たとえば宏樹。大学時代も家から通っていたけれど、やれ合宿だ遠征だとしょっちゅう家を空けていた記憶がある。友達の家に行ってそのまま泊まりこんだり、友達のほうが遊びに来て泊まっていくことも日常茶飯事だった。よくあることだったからこそ、今日は誰の家に行くのか、誰を連れて来るのか、母親がいちいち詮索をすることも滅多になかったはずだ。和樹にしても同じで、だから例の、一週間で振られた彼女の部屋にも、誰に追及されるわけでもなく、入り浸ることができた。
涼矢の家は、和樹の家ほどには、他人が出入りすることに慣れていないんだろうとは思う。だが、放任という意味では和樹の親よりよほど放任ではないか。そう思うと、この涼矢の反応は腑に落ちなかった。
「まあ、和樹が言いたいことは分かるよ。」と涼矢が言った。
「え?」
「うちだって、柳瀬とか昨日みたいにズカズカ来て、そのまま泊まってったこと、何度もあるし。和樹んちも宏樹さんの友達も来たりして、合宿所みたいになってることもあったって、前に聞いた。」
「だろ? だったらそんな。」
「うん……。そうなんだろうな。きっと。考え過ぎなんだと思う。」涼矢は両手の指を組み合わせて、親指の爪同士を弾く仕草をする。「俺はさ、やっぱまだ、怖いんだ。和樹の周りにいる……宏樹さん以外の人に、バレるのが。」
「でも、高校の奴らとかにはもうバレてるし。それに、おまえこそ大学の友達にはオープンにしてるのに、今更。」
「そうだけど。……そうだな、今の、少し訂正。」涼矢は少し困ったような表情を浮かべる。「おまえの親だよ。お母さんとお父さん。」
「……だから、そこは、バレないよ。友達んち泊まるのとか、そんなの慣れてるし。」
「それは実家にいた頃の話だろ。2、3日もすりゃ帰ってくるのが分かってるから、気にしないでいられたんだ。今とは違うだろ。」
「そんなに違うもんかね。」和樹はソファから立ち上がり、涼矢の前に立つ。
「違うよ。全然違う。」涼矢は和樹の手を取って、両手で挟み込むように握った。「こっちは、待ってる側だからさ。」
「ん?」
「俺は待つ側。和樹の親も。宏樹さんも。おまえは出て行った側。待たせている側。待ってる側は、首を伸ばして待ってるわけで。」
「待たせてるなんて言い方しちゃう? 遠距離なんだから同じだろ。お互い様だろ。いや、どっちかって言ったら、俺は一人遠くにいて、おまえの言う、待ってる側? それは、みんな……家族も友達も近くにいてさ、俺のほうが淋しい立場なんじゃない?」
「それは、そう……なんだけど。」涼矢はまた黙り込んだ。
ともだちにシェアしよう!