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第674話 重ねる時間 (1)

 和樹は涼矢のその表情を見て、これ以上追及することはやめた。納得したわけではないけれど、こういう場面で涼矢を追い詰めても、ろくなことにならないのは学習した。「まあ、とにかく帰る。んで、今日はここには来ないでおく。普通に自分ちにいる。で、家族団欒。それならいいだろ?」  涼矢は顔を上げた。まだ和樹の手を握っている。その手にきゅっと力を込めた。「……うん。」 「そんな顔するなら引き止めろよ。」和樹は笑って、つないでいないほうの手で、涼矢の頭をくしゃくしゃと撫でた。 「いつ東京に戻る?」 「はっきり決めてない。けど、7月中には。8月に入ったら予定もあるし。」 「夏期講習、だっけ。」 「うん。よく知ってるな。……明生か。」  涼矢は頷いた。 「だからまだ、1週間ぐらいはいるから。」和樹は髪を撫でていた手を滑らせて、頬に触れ、顎をつかむと、腰をかがめて、涼矢にキスをした。  車で送ってやる、と涼矢は言ったが、和樹はそれを断った。その代わりにと前置きをして言う。「チャリ貸して。久々に自転車で行ってみる。」  涼矢はそれを了承した。初詣の時以来久しく乗ってない自転車は地下にあり、空気圧を確かめて玄関のほうへと移動する。 「悪いね。」と玄関先で待っていた和樹が言った。「すぐ返すから。明日はこれ乗って来るから。」 「いつでもいい。今は滅多に乗ることないし。」  自転車にまたがる和樹が、苦笑いしながら涼矢の額を軽く指で弾いた。「馬鹿、明日も来るって言ってんだよ。」 「……あ、ごめん。」涼矢が照れくさそうに笑うのは、察しの悪さを恥ずかしく思ったのか、そのセリフの甘さのせいか。 「また連絡する。」 「うん。」  和樹の乗った自転車が軽やかに走り出す。  自宅に戻った和樹を恵が嬉しそうに出迎えた。満面の笑みを浮かべながらも「帰って来る時間ぐらい知らせてよ。お母さんにだって予定があるのよ。」と文句を言う。 「どこか出かけるの?」 「出かけないけど、ごはんの支度もあるでしょ。」それでも、これから昼食を食べるという和樹のために、あらかじめ準備されていたらしきおかずが食卓にいくつも並べられていく。本来なら昨日のうちに出す予定だったのだろう。「あっ、でも、聞いて。」 「なに。」 「お母さんねえ、お仕事しようと思うの。」 「母さんが?」 「週に3日だけね。」 「アパレル?」 「ファミレス。駅の近くの。ランチタイムだけね。」 「いいんじゃない?」 「家にいてもすることないしね。お友達に誘われたのよ。」  恵から「恵の友達」の話を聞くことはほとんどない。恵はこの土地の出身でもないし、市内ながらも一度引っ越しているからママ友と呼べる人とは今では交流もなさそうだ。 「友達って、どこの友達?」和樹はなんの気なしにそんなことを尋ねた。 「えっと、それは。」珍しく恵はうろたえるような表情だ。「とりあえずごはん食べましょ。いただきます。」恵も昼食がまだだったようで、一緒に食卓についた。  食事も終盤に差し掛かったところで、恵のほうから話し始めた。「これ、お母さんが自分で縫ったの。」恵は自分の着ていたエプロンを指差した。 「へえ。……ああ、でも母さん、昔はよくちょこちょこ作ってたよね。体育着入れる袋とか。」 「そうそう。好きなのよ。それでね、この間、町内会でそんな話してたら、ネットで売ったら?って言われたの。今そういうハンドクラフト? そういうのが売れるんですってね。でも、お母さん、インターネットとかしないし、知らない人とお金のやりとりは怖いからそれは断って。」  和樹は恵の話の着地点が見当つかない。てっきり「パートに誘った友達」についての話だと思って聞いていたが、今のところそれらしき人物は出てこない。恵の話はいつもこうだ。以前ならイライラして結論を急かしたりしたものだが、今日のところは親孝行と思って辛抱強く聞いた。 「でも、そのネットで売ったら?って言った人のお友達がね、今度お子さんが小学校に上がるんですって。それで、さっき和樹が言ってた体操着入れる袋とか? ランチョンマットとか? そういうのがいろいろ必要で、それを作ってくれない?って言われたの。実費のほかにお礼もくださるって言ってたんだけど、素人だし材料費だけいただいて作ったのね。」  もうとっくに2人とも食べ終えて、それでも恵の話は終わらなかった。恵は食卓を片付け、皿を洗い、緑茶を淹れ、その間も話し続ける。そんな器用なことができるなら、要旨だけまとめて話をしてくれないものかと和樹は思う。恵は湯呑を2つ置き、椅子に座る。 「そしたらその方が、私の作ったものを気に入ってくださってね、下のお子さんが保育園に行ってて、そっちでもバザー用の小物とか、頼みたいものがあるからお願いしたいって。何もお礼しないんじゃ逆に頼みづらいし、細かいサイズ指定もあるから直接会ってお話ししたいって言うので、それでその人のパート先で会うことにして。それがそのファミレスだったの。」  ようやく話がつながりはじめて、和樹はホッとする。

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