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第675話 重ねる時間 (2)
「その方は平日は全部、つまり週5日、仕込みからランチタイム終了までそこでパートしているのに、夜はまた別のお仕事してるんですって。お子さん2人抱えて離婚して、1人で育児していてね、大変だと思うけど、全然辛そうにしてなくて、偉いなぁって思ったわ。それで、お母さんもそこでパートすることになったの。」
これだけ話しておきながら、肝心のパート勤務のきっかけについては話が飛躍する。だが、詳しく聞きたいと思うほど興味はなかったし、そこからまた話が長くなるのも避けたかった。とりあえず、相槌がてらに通り一遍の受け答えをした。「シングルマザーか。最近じゃ珍しくもないけど、やっぱり1人で2人の子を育てるのは大変なんだろうね。」
その途端に、恵が妙に落ち着きをなくした。もう空のはずの湯呑を傾けて、あら、という顔をしたりもする。それでも黙って見ていると、恵は和樹の顔色を窺うような顔をした。「あのね、和樹。」
「ん?」
「これ、お父さんには……宏樹にも言わないでほしいんだけど。」
「なに?」
「その方ねえ、シングルマザーじゃないの。シングルファーザー。」
「……男?」
「変な想像しないでよ? 町内会の人のお友達、それは本当よ。それだけよ。でも、お父さんが聞いたら、きっと良い気持ちしないと思うから。」
どうなのだろう。男性がいる職場で妻がパートする。それは別にどうということでもないだろう。異性が1人もいない職場を探すほうが大変だ。ただ、それがバツイチ男性で、そのこどものために個人的に縫い物を請け負っている、と聞いたら、夫としては嫌なものなのだろうか。和樹は父親の隆志を思い浮かべる。涼矢の両親の件と言い、鈍感だったり分からずやだったりするところはある。けれど、悪い人間ではないと思う。至って普通の、そして、俗っぽい「よくいるおじさん」だと思う。恵に対しては基本的に優しいし、言葉にはしないものの美人の妻を自慢に思っている気配もたまにある。東京のアパート探しをする時に、恵が同行するとなったら急遽ホテルをグレードアップしたのだってそうだ。ホテルのレストランで食事をするにあたり、普段よりお洒落した恵を目を細めて見ていた。
「分かった。」とだけ和樹は答えた。
「外で働くのは怖いわ。」と恵が言い出した。「私、普通のお勤めってしたことないし。」
「モデルだけ?」
「そう。何回かキャンペーンガールみたいなことはやったけれど。そんなに大きい仕事じゃないわ、新作発表の場で試供品を配るとか、新製品のパネルを持ってニコニコ立ってるだけっていうような。」
「へえ。」
「お父さんの会社の商品を宣伝した時に知り合ったのよ。お父さん、その頃広報部で、担当だったから。」
「ああ、そういう出会い。」両親のなれそめを聞くのは初めてだ。聞こうと思ったこともなかったけれど。
「というのが表向きね。」
「えっ?」
「いわゆるあれよ、合コン。」
「えっ?」聞き返すのは二度目だ。
「短大生の時にね、もうモデルの仕事はしてて、その時に商社マンとの合コンあるからって誘われて、そこにいたのよ、お父さんも。でも全然ピンと来なくて、その時はそれっきり。それが3年後だったかしら、今言った仕事で偶然再会して。運命だー、なんて思っちゃったのよね、若かったから。」恵はクスクスと笑った。「でも、合コンで知り合いましたなんて言ったら、はしたない!!って怒り出す親だったのよね、うち。だから、最初の出会いはずっと内緒にしてたの。」
「合コンかぁ。」自分の母親にも「若い頃」があって、青春があって、恋をした。当然だと頭では理解するが、変な気分になる。
「あなたも気を付けてね。東京で変な女の子にひっかからないでよ?」恵は横目で和樹を見た。
「自分のこと、棚に上げて。」
「自分がそうだったから言ってるのよ。」
「後悔してるわけ? 父さんと結婚したこと。」
「してないわよ、でも。」恵は少し遠い目をする。「私、友達より早めの結婚だったから、もう少し遊べばよかったなぁって思う。遊ぶというとあれだけど、もっといろんなこと経験して、いろんな世界を見ておけばよかったなって。」
「でも人がしない経験してるじゃない? モデルなんて、誰にでもできる仕事じゃないだろ。」
「あれは声かけられて、楽しそうだなって軽い気持ちでやっただけだもの。考えが甘かったの。続けていくにはいろいろ大変なこともあると分かってきて、本気で上を目指してる子たち見て、私には無理だわってつくづく思った。だからってほかにやりたいこともなくて、そんな時にお父さんと再会して、つきあって、転勤の話が出て、結婚しないかって言われて。そんな風にトントン拍子に進んでしまったものだから。」
「トントン拍子っていいことなんじゃないの。」
「そうね。そうなんだけど。」恵は結論を曖昧に濁して、最後はただ微笑んだ。
和樹は自分の部屋に引っ込んだ。ベッドに横たわると天井のロックバンドのポスターが目に入った。和樹の部屋は、いろいろなものが少しずつ位置を変えられ、今では半ば物置になっているが、ポスターはそのままなんだなと思う。――このポスターと目が合うのが苦手だと、涼矢が言ってたっけ。
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