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第678話 重ねる時間 (5)
「そういう生徒もいるんだ?」
「いるよ。学校には行けなくても塾なら来るって子とか。」
「そうか。……こういう仕事ってのは、マニュアルじゃ対応しきれないことも多いよな。俺も毎日苦労してるけど、まあ、その分、生徒の成長が見えると嬉しいもんだし、頑張れよ。」
「うん。」和樹は素直に頷いた。学校と塾、教える場所は違えど、「先生」と呼ばれる仕事という意味では宏樹は先輩だ。宏樹がそういう仕事に就いていなければ、そして、それを誇りに思っているのでなければ、和樹も塾講師のアルバイトをしようなどとは思わなかっただろう。それに、兄貴にできることなら俺だってやれる、そういう意地も少し含まれていたかもしれない。
「やあねえ。」と恵が口を挟む。「あなたたちのほうが大人になっちゃったみたい。お母さんなんか、マニュアル読んだだけで頭痛がしたわ。」
「マニュアルってファミレスの?」と和樹が聞き返した。
「ええ、そう。」
「いつからやるの?」
「本当は今週から。でも、あなたが帰ってくるって言うからずらしてもらったの。8月1日からよ。」
それなのにまっすぐ帰らずに涼矢の家に一泊してしまったのか。そんな罪悪感が湧き上がるが、それよりも、頼んでもいないのに恩着せがましく言うなよ、という勝手な苛立ちのほうが先に立つ。「俺も8月はバイト漬けだな。夏期講習あるから。」恵に対抗するかのように言った。
しかし、恵は和樹の対抗心などまるで意に介さず、「バイトもいいけど、体壊さないでよ。」と言う。恵のほうはあくまでも親心が先のようだ。
宏樹までもが「母さんこそ無理しないでよ。その年で新しいことするんだから。」などと、母親を労わる発言をして、和樹はようやく良心がチクリと痛んだ。
だが、恵は宏樹の優しい言葉に感謝するどころか、「その年でなんて、失礼しちゃうわね。私より年配のお姉さま方だってたくさんいるんだから。」と拗ねた。
「母さんより年配って、もうお姉さまじゃないだろ。おばさん……いや、母さんがおばさんなんだから、おばあさん世代?」と和樹が混ぜっ返す。
「ひどいわ、お給料いただいたら、あなたたちにも臨時のお小遣いでもあげようと思ったけど、全部自分のことに使ってやるからね。」
「それは……そうしなよ。俺だって夏期講習でいつもよりまとまった額、稼げる予定だし。」これは本心だ。
「俺もそう思う。」と宏樹も言う。「新しい服とか、ずっと買ってないだろ。母さんの好きなことに使ったらいい。」
恵は毒気を抜かれた顔をした。「そんなことより、早く食べちゃって。いつまでも片付かないわ。」心なしか嬉しそうだ。
そして、食事を終えた和樹が「俺、皿、洗うよ。」と立ち上がろうとすると、いいからテレビでも見てなさいと、まるでこどもに対するような口ぶりで言う恵だった。
翌日、約束通りに自転車で涼矢の家に向かった。高校の部活仲間と会う。恵に伝えた説明は、一応そこまでは本当のことでもあった。あたかも何人もで集合するような言い方をしたけれど。それから、「夜はカラオケに行くって言ってるから、オールすると思う。夕飯要らないし、待たずに寝て。」とも言っておく。
涼矢の部屋に入って早々、和樹はその話をした。「だから、泊まってっていいよな?」ベッドに2人並んで腰掛ける。
「俺は構わないけど。」
「ちゃんと親孝行もしたよ、俺。」だから褒めてくれと言わんばかりに和樹が言った。
「うん。」
「なんだよ、もっと喜べよ。」和樹は涼矢の頬を軽くつねった。
「喜んでるよ。感情に表情筋がついてってないだけ。」
「なんだそれ。」和樹は今度は両手で涼矢の顔をひっぱったり押したりといたずらする。「はい、じゃあ、表情筋のストレッチ。」
「ひょれ、地味に痛いんらけど。」口元も引っ張られるから、うまくしゃべれない。
「何言ってるか分かんねえよ。」やがて和樹の両手が涼矢の頬を包み込む。そのまま顔を近づけて、口づけた。
「好きだって。」涼矢が微笑む。「好きだよ、って言った。」
「嘘だね。地味に痛いって言ってただろ。」和樹は自分がつついていた頬を撫でる。
「痛くないよ。」
「痛いって言ってた。」和樹は繰り返す。
涼矢は自分の頬にある和樹の手を取り、指をからませた。それからその手を引くようにして、和樹を引き寄せる。繋いだ指先を離すと、両手で和樹を抱きしめた。「もう痛くない。」
和樹は抱きしめられたまま、口元にある涼矢の首に唇を押し当てた。涼矢の匂いがする、と思った。
何度もここに来て、何度もセックスして、だんだんと激しくなる行為に記憶は上書きされていくような気がするけれど、こんな風に優しく抱きしめられると、すぐに「最初の日」に引き戻される。
『好きなんだ。』
涼矢のあの声が聞こえてくる。さっきの余裕のある「好きだよ」とは違う、かすれて震えた声。それから、上京前夜のこと。涼矢が自分を好きでいてくれる限り、俺もおまえが好きだなんて、ひどいことを言った。でも涼矢は、それなら「ずっと」だと答えて、そして実際、ずっと好きでいてくれてる。あの頃と今とでは、2人の関係は随分と変わったと思うし、同時に、何も変わっていないとも思う。
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