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第689話 重ねる時間 (16)
薄暗くなるまで、2人はベッドの中で過ごした。他愛のないおしゃべりもすれば、体に触れあいもした。キスは数えきれないほどした。あと一段階進めば、また激しく求めてしまいそうになるギリギリ手前の接触。
ヴァニラセックス。そんな単語が涼矢の頭に浮かんだ。挿入まではしない、優しく甘い性行為。誰が言い出したのか知らないけど、うまいこと言うものだ、などと思う。溶けかかったヴァニラアイスのような時間。
「アイス食いたい。」と和樹が言い出したので、涼矢は慌てた。本当にテレパシーが伝わってしまったとは思わないが、無意識にその言葉を口に出していたのかと思ったからだ。
「バ、バニラ?」
「へ? なんで?」
「……いや、なんとなく。」
「バニラより、さっぱりしたやつがいいな。ソーダとか、レモンとか。かき氷系でもいいや。」
「買ってこようか?」
「いいよ、どうしてもってほどじゃない。」
「いや、行ってくる。買い物あるし。ついでに。」
「晩飯だったら、そんな凝らなくていいよ?」
「コンドーム。」
「あ?」
「なくなった。」涼矢はコンドームの空箱を振ってみせ、それをゴミ箱に捨てた。
「ちょっとなら俺も持ってる。」
「ズボンのポケットか? それで足りる?」
「……足りねえな。」
「ローションは……こっちもあんまりないな。」
「買い置きないの。」
「ない。ここまで消費するとは思ってなかった。」
「真顔で言うな。」和樹は吹き出す。「分かった、買い物な。」ベッドから下りる。「シャワーしてからでいい?」
「いいって、俺1人で。和樹は休んでなよ。」
和樹は、わざと顎を引いて、上目遣いで涼矢を見た。「あなたと片時も離れたくないの。分かってくださるぅ?」
涼矢は一瞬呆気に取られたが、すぐにニヤリとした。「そっか。それなら、一緒に。」和樹の手首をつかみ、歩き出した。
「ちょっ、何、なにすんの。」
「片時も離れたくないから、一緒にシャワーしようと思って。」
「馬鹿、いいよ、来るなよ。」和樹は涼矢の手を振りほどく。涼矢は手こそ離したものの、にやにやしながら和樹の後を着いて行った。和樹は「来るなって。」と追い払う仕草をしながら階段を下り、バスルームに向かう。
結局涼矢はバスルームの中まで着いてきた。和樹はもう何にも言わない。
「どうしたの、急に黙っちゃって。観念した?」涼矢はシャワーを出して、湯温を確認する。
「や、別に。」和樹は涼矢のほうを見ずに答えた。「どうせおまえ、俺の言うこと聞かないし。」そんなことを言いながら、何故かキョロキョロと浴室内を見回し、それでいて涼矢のことは相変わらず見ようとしない。
涼矢は和樹の様子を訝しみつつも、適温になったシャワーを和樹に向けた。「ほら、洗ってやるから。」
「いい、自分で。」和樹はシャワーヘッドに手を伸ばす。が、浴室の隅に立ち、そこからわざわざ手を伸ばしている。
「もうちょっとこっち来いよ。」
「いいから。」和樹の伸ばした手は空を切る。
それでやっと涼矢は気づいた。「もしかして……鏡?」
「うるさいな、とりあえずシャワー貸せって。」
涼矢は壁の鏡を見る。湯気で曇っている上に、涼矢の裸眼ではよく見えない。だから、そのままそう伝えた。「見えないよ。曇ってて。第一、何を今更恥ずかしがる必要が。」
和樹はもう一度鏡を見た。さっきはもっとクリアだったが、今は涼矢が言うように湯気で曇っていた。和樹はおとなしく涼矢に近づいた。「でも、自分でやるから。」
涼矢は理由を問いただすのをやめ、和樹にシャワーヘッドを渡した。和樹は肩のあたりから順にお湯で洗い流していく。それを見ている涼矢のことは、それほど嫌がる感じはない。どういうことなのだろう、と涼矢は思う。
――何をそんなに気にしてた? 鏡? ついさっきまでケツだってなんだって、俺に見られてるのに?
涼矢は曇った鏡をじっと見た。はっきりとは見えないけれど、人がいて、裸で、うごめいているのは分かる。その鏡を手でサッと拭いさえすれば、和樹の裸体がはっきり映るだろう。そうなったら、和樹は嫌がるのだろう。怒り出すかもしれない。本物の和樹の裸の肩越しに、曇った鏡を見る。
「ああ、和樹、まさか、正月の。」
「……。」
涼矢は思い出した。新年明けてすぐ。佐江子も正継もアリスの店に行って留守なのをいいことに、このバスルームの脱衣所兼洗面所でセックスした。大きな鏡の前での性急なセックスは、だが、刺激的だった。和樹に鏡を見ろと強要して、蕩けた自分の顔を見せつけた。和樹は恥ずかしがりながらもいつになく乱れて、すぐにイッた。
今、鏡を視野に入れないようにして体を流している和樹もまた、あの時のことを思い出しているのだろう。あの時の、自分の淫らな姿を。
「和樹。」すぐ背後に立ち両肩を抱くと、和樹はぶるっと全身を震わせた。その反応で涼矢は確信する。「この鏡は、洗面所みたいに大きくないから、どっちにしろ見えないよ。」涼矢は隙をついてシャワーを取り上げ、鏡の表面を流した。曇りがなくなった鏡は、立っている2人の膝下を映している。「ほら、ね。足元しか。」その鏡は、風呂椅子に座った時に顔が見える程度の位置にある。そもそも大きさだって、顔から胸元あたりが見えるかどうかいったサイズで、洗面所のように角度によっては全身が見えるようなものではない。
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