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第692話 たゆたう空間 (1)
「今日のごはん、なーにー。」と和樹がのんきな声で言う。
「和食。煮魚メイン。」
「えー。」今度は不服そうな声だ。
「おまえが普段食わないもの作るんだよ。」
「おかんかよ。っていうか、おふくろでさえそんなことしない。しなかった。ハンバーグとか俺の好物作ってた。」
「親心ってやつだよな。」涼矢は背後の椅子に座る和樹を振り向く。「俺は親じゃないので。」
「改めて言うな。知っとるわ。」
「なあ、そこでゴチャゴチャ言ってるだけなら、味噌汁でも作ってよ。」
「えー。」
「えー、じゃねっつの。」
「里帰りってぇ、そういうのしなくても三度のごはんが出てくるところがいいんじゃないっすかぁ。」
「俺はずっと実家にいるのに三度の飯が自動的に出てきたことねえよ。」
「かーわいそう。」和樹は笑いながら立ち上がり、涼矢の隣に立った。「何の味噌汁にする?」
「玉ねぎと油揚げ。」
「お、それ好き。あんまネギ類好きじゃないんだけど、それは好き。」
「おまえんちで食べたのが初めてだった、その組み合わせ。美味しかったから。」
――そう言や、おふくろがその味噌汁を「田崎くんが気に入った」とか言ってたな。手巻き寿司でも食べに来た時か。
「俺がいない時でも、我が家のおふくろの味を覚えるなんて、できた嫁だな。」
「何言ってるんだよ、さっさと手を動かせ。」
「鬼嫁だけど。」和樹は笑いながら玉ねぎの皮をむき始めた。ふと涼矢を見れば、魚の切り身に熱湯をかけている。そして、それは3切れあった。佐江子の分も用意しているということだ。「今日、佐江子さんは一緒にごはん?」
「知らん。」
「でも作ってあげるんだ?」
「一応な。」
「優しい。」
「飯を炊くにしても、煮物作るにしても、1人分だけ作るのって逆に難しくない? 食材も半端に余るし。」
「飯はまとめて炊いて冷凍してる。」
「俺もそれはやるけど。」
「まあ、確かに、カレー作ったら何日も続く量になるな。つか、今は暑いから、あんまり火を使いたくないんで、料理ほとんどしてない。」
「どうせそんなことだろうと思うから、こういうの作ってんの。」
「ほんっと良い嫁。早く一緒に暮らしてえ。」和樹は笑いながら玉ねぎを切る。
「あたしは飯炊き女になるために、あなたと結婚するんじゃありません。」棒読みの低音のままで涼矢が言い、和樹は更に笑った。
「アスリートの奥さんみたいになりそう。きっちり栄養バランス考えてくれてさ。」
「元女子アナで、野菜ソムリエの資格とったりするタイプの。」
「そうそう。」
「ならないよ、ああいう女、すげえ嫌い。」
「辛辣。」和樹はまた笑うが、苦笑いだ。「でもさ、逆に、好きな女っているの?」
「俺に好みの女のタイプを聞いてるのか?」
「いや、そういうんじゃなくて。俺だって、格好いいなと思う俳優やミュージシャンっているし。そういうノリで。」
「ああ。……それだったら、きれいな人が好き。」
「元女子アナなんて美人ばっかりじゃない?」
「夫や彼氏のためには、そういう美貌も才能も犠牲にして尽くしますよってアピールする女が嫌いなの。」
「ひねくれてんなあ。」
「だから。」涼矢は隣の和樹を見る。「川島綾乃も嫌いだった。」
和樹は言葉に詰まる。
「和樹のために、和樹の好みに合わせてるってアピール、すごくてさ。けど、本当は違う。和樹っていう、一番モテる男を落とした自分が可愛いんだ。アスリートの夫のためにキャリア捨てて、勉強して資格取るんじゃない。そうすることで、良い妻だって評価される自分が好き。そういう女が嫌い。」
「庇うわけじゃないけど、彼女、そこまで考えてなかったと思うよ?」
「だろうな。無意識にやってるんだ。余計むかつく。」
和樹は続いて油抜きをした油揚げを刻む。「もう時効だろ。今は関係ないんだから。」
「うん。……それ、この鍋で煮て。だし、もう、とってあるから。」和樹は、涼矢がそう言って指し示した鍋の上まで、まな板ごと持っていき、玉ねぎと油揚げを投入した。
煮魚も味噌汁も、しばらくは煮るだけだ。手が少しだけ空いて、沈黙が目立つようになる。
「同族嫌悪みたいなところもあるんだろうけどな。」涼矢のほうがぽつりと言う。
「同族嫌悪?」
「俺は別に美人じゃないけどさ、どっかで、和樹とつきあってることをステータスみたいに思ってる。料理だって、部屋掃除だって、おまえのためなら苦じゃないって言ってるし、そう思ってるけど、心のどっかでは、さすが和樹の彼氏だねって、尽くす俺を高く評価してもらいたいんだ、きっと。」
「誰に?」
「え?」
「だから、今のは、涼矢くんすごいね、和樹は良い彼氏がいて幸せだねえってほめられたいって話だろ? 誰にそう言われたいのかって。」
涼矢はポカンとして、黙っている。
「親じゃないだろ? 友達? 柳瀬やエミリ? 奏多? 哲か? それこそ女子アナやトップ選手みたいにテレビ出るような人だったら、マスコミやら世間やらの評判を気にしなきゃいけない時もあるだろうけど、俺らはそんなの、関係ないわけだし。」
「……考えたことなかった。」
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