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第693話 たゆたう空間 (2)

「じゃあ、そんなの、いいじゃん。おまえが気にすることもなければ、綾乃のことで今更むかつく必要もない。俺とおまえが楽しくやってりゃいいだろ。」  涼矢は和樹をじっと見て、突然ハグをした。 「なにしてんの。」 「ハグ。」 「それは分かってるけど。」 「和樹があまりにも良い奴だったから。」 「はは、なんだそれ。」 「楽しくやってる? おまえは。俺といて。」 「うん。言っただろ、結構うまくやれてると思う、って。……まあ、もうちょっと一緒にいる時間、欲しいけど。それは仕方ない。」 「ありがと。」涼矢はハグしたまま、和樹の頬にキスをする。  その瞬間に、和樹が涼矢を押し返した。「おい、やばい、鍋。」慌てて吹きこぼれそうだった味噌汁の鍋の火を止めた。 「あっぶね。」涼矢は煮魚のほうの様子も確認する。こちらは大丈夫そうだ。それから時計を見る。「もう一品、なんか軽いもの作って、飯にするか。」 「ああ。」  佐江子の帰宅は、ちょうど2人が食事を終えた時だった。 「あら、いい匂い。」そう佐江子は言ったが、その時にはもう、食卓には空の皿しかなかった。その後に和樹を見て、「こんばんは、いらっしゃい。」と言った。 「お邪魔してます。」という和樹の返事と「晩飯、食う?」という涼矢の声が重なった。 「食べる。」と言って、佐江子は自室に入っていく。  涼矢が立ち上がり、鍋に残していた煮魚を盛り付ける。和樹は空の皿を下げる。 「後でまとめて洗うからいいよ。」と涼矢は言ったが、和樹はスポンジに中性洗剤をつけた。 「佐江子さん戻ってきたら気まずいし。」和樹は小声で言う。 「これ準備したら俺の部屋行こ。」涼矢が笑う。  間もなくしてルームウェアになった佐江子が戻ってきた。「ビールあったっけ。」と言いつつも自分で冷蔵庫を開け、あったあったと缶ビールを持って席に着く。 「味噌汁は後にする?」と涼矢が聞いた。 「うん。いいよ、後は自分でやるから。」 「じゃ。」涼矢がさっさとリビングを出たので、和樹も後について行った。部屋を出る時に軽く佐江子にお辞儀をすると、佐江子は缶ビールを飲みながら「いってらっしゃい」とでも言うように手をひらひらさせた。  二階の涼矢の部屋まで来ると、和樹が「あっ。」と言った。 「どうした?」 「俺、ごはん全部食べちゃった。佐江子さんの分、残してない。」 「ああ、大丈夫。あの人、晩酌の時は白飯食べないから。」  涼矢はベッドではなく床に座った。和樹もその隣に座る。 「そうなんだ。」 「ダイエットなんだか知らないけど。」 「あんなに細いのに。」 「そうでもないよ。最近太ってきた。昔はもっとひどかった。俺が中学ぐらいの時かな、今よりもっと忙しくて、ろくにメシも食ってなかったんだと思う。顔色も悪くて、今のほうがまだ見られる顔してる。」 「今より忙しいなんてよっぽどだな。」 「うん。」涼矢は淋しげに笑う。「まあ、いろいろあったから……。俺も余裕なくて、たまに顔合わせてもおふくろとは口も利かなかったりしたし。」  いろいろ、のメインは例の初恋の人の件なのだろう。和樹はそう思ったが、そのことは持ち出さずにおいた。「俺もその頃は、反抗期チックだったな。」 「へえ。」涼矢は意外そうに和樹を見る。 「そんなに激しくはなかったと思うけど、やっぱりちょっとイライラしてたよね。兄貴ともよく喧嘩した。」 「想像つかない。」 「兄貴がね、優しいから、俺ばっかキーキーしてた感じ。取っ組み合いでもしたらふっとぶのは俺のほうなのは分かってたから、力ずくの喧嘩はしなかったんだけど。」和樹は苦笑いした。「それで、なんだっけなぁ、なんかおもちゃのパーツ? ビー玉だったかな。とにかくそのへんにあったもんを投げつけたことあるんだ。そしたら、たまたま兄貴の歯に当たって、折れて。だから兄貴の前歯の1本、差し歯なんだ。」 「ひっでえ。」 「当たるとは思ってなかったんだよ。」 「歯は鍛えられないからなあ。」 「そうなんだよね。その時まで、兄貴は何しても平気だって思ってたけど、そうじゃないんだなって。」 「当たり前だろ。」 「当たり前のことに気付かないもんなんですよ。特に家族だと。」 「まあ、確かに。俺もおふくろがひどい顔して仕事してた時も、心配してなかったわけじゃないけど、おふくろは平気だって思ってたもんな。過労で倒れるまで。」 「倒れたんだ?」 「うん。点滴して1日寝てたら復活したけど。――いや、違うか。」 「ん?」 「ちゃんと復活したのはその後だなあ。中3の、進路決める時期かな。三者面談で担任に将来のこと聞かれてさ。家で親と会話してなかったから、そういうことも話し合ったことなくて、その時初めて言ったんだ。弁護士になりたいって。」 「自分ではずっとそう思ってたの?」 「ぼんやりとね。つか、職業をそんなに知らないじゃない、こどもって。警官とか学校の先生とかパン屋なら想像つくけど、あとは自分の親の職業ぐらいしか。俺は会社員のほうが馴染みがなくて何する人なのか分かんなかったし、とりあえず知ってた職業を口にした程度のことだったんだけどさ、佐江子さんが妙に嬉しそうにしてたのが印象的で。そんなに喜ぶなら、なってもいいなぁって。そこから真剣に目指すようになったってのが正しい。」

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