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第694話 たゆたう空間 (3)

「おまえが同じ職業目指すって聞いて、元気になったんだ、佐江子さん。」 「仕事をセーブして、ちょっとは自分の体を気遣うようになった。今でもオーバーワークではあると思うけど、それ以前がもっとひどくて。自分を罰してるような無茶な働き方してたから。」 「罰?」 「たぶん、例の。」涼矢は口ごもる。「死なせた責任を感じてたんだと思う。」  誰を、とは口にしないまでも分かる。和樹はただ頷いた。 「でも、そうだったんだろうって気づいたのは最近。和樹に先生のこと話して、それから、おふくろに。」一瞬言葉に詰まるが、すぐに再開した。「俺がゲイってこととか、和樹とつきあってることとかちゃんと話した、後。」涼矢は和樹を見る。「ほんと、気づかないもんだね、家族のことって。」 「お父さんは?」 「え? その時? 単身赴任してたけど?」 「いや、そうじゃなくてさ、お父さんは検事だろ。そっちは目指さないの?」 「ああ。」涼矢の目がくるんと上を向く。記憶をたどっているようだ。「目指したことないな。」  和樹は笑う。「今からでも目指せるんだろ?」 「うん。でも、弁護士がいい。」 「そうなんだ。」 「検事は転勤あるし。」 「そういう理由か。」 「それだけでもないけど。」涼矢はまた隣の和樹を見る。「渉先生も弁護士を目指してた。検事じゃなく。」 「あ……。」 「あの人の代わりに、なんて思ってない。でも、さ。」 ――あの人の代わりに夢をかなえたいわけじゃない。ただ、あの人の見てきたものを知りたいとは思った。それは確実にひとつの動機ではあった。何故あんな最期を遂げねばならなかったのか。家庭教師として初めて目の前に現れた日、彼は言ったのだ。僕は弁護士になるための勉強をしています。きみのお母さんと同じ仕事です。どんな人も幸せに生きることを否定されない社会にするための仕事です。 ――そう言っていた彼の「幸せな人生」は、否定され、粉々に砕け散った。おそらくは彼が恋した相手によって。同じ勉強をしていたはずの。 ――でも、正直忘れてたな。そんな最初の「動機」なんて。  涼矢は和樹を見た。 ――俺には和樹がいるから。俺を否定しない人たちに、出会えたから。  言いかけたまま続きを言おうとしない涼矢に、和樹は苛立つ様子も見せなかった。涼矢が何か考えていることは見れば分かった。その内容は具体的には分かるはずもないのだけれど、おおよその見当はついた。和樹はまだ触れられない部分。まだもう少し涼矢の中で消化されるのを待つしかない、あの人のこと。  和樹の胸の奥がほんの少しだけチリリとする。嫉妬じゃない、と自分に言い聞かせる。もういなくなった人の話だ。忘れなくていいと言ったのも自分だ。その人を忘れられない涼矢だから好きになった。  嫉妬するなら、あいつのほうだ。和樹はふいに哲のことを思い出す。こんな時に何故、と自問自答する。おそらく弁護士や検事といった言葉からの連想だろうと結論付けて、その勢いで哲の名前を出し、話題の矛先を変えた。「哲が目指してるのも弁護士だっけ。」 「哲? うん、ああ、たぶん。分かんないけどね。それこそ検事かもしれないし、全然違うことやりはじめるかも。」 「元気にしてんのかな。連絡あるの?」 「はじめの1週間はホームステイしてて、その家から大学の寮に移ったって時にだけ、住所知らせてきたかな。それっきり。」 「ああ、その連絡なら俺にも来た。あっさりしたもんだな。」 「心配ないだろ、あいつのことだから。」 「あいつだから心配だろ。」 「和樹が心配する必要ない。」 「また、そういう……。あ、そうだ、見送り行った時、哲、英語の本を持っててさ。おまえ、哲の留学頑張れ会、やってやったんだって?」 「俺が企画したわけじゃないよ。レポート一緒にやったメンツでメシ食っただけ。英語の本って、そのうちの1人が一番好きな話なんだとか言って、餞別にあげてたやつかな。」 「『賢者の贈り物』。」 「うん、確かそう。」 「哲の奴、変なこと言ってた。哲にぴったりだけど、哲らしくない話だって。どういう意味かね。」 「謎かけみたいだな。」 「貧乏な夫婦がお互いに贈り物をするんだよな?」 「うん。夫は大事にしていた懐中時計を売った金で、妻のための櫛を買うんだけど、妻は美しい髪を売り払ってしまっていて、役に立たない。妻のほうは髪を売った金で懐中時計用の鎖を買っていたんだけど、肝心の時計はもう売り払われていてやっぱり役に立たない。」 「すごいすれ違い。かわいそう。」 「でも、賢者の贈り物だから、二人は賢いってことなんだよね。」 「皮肉なタイトルじゃない? だって結果的には役に立たないものの交換になっちゃってさ。」 「俺もその場で話してた時はそう思ったけど、その後、読み返してみてさ。やっぱり、皮肉とかじゃなくて、タイトルそのままの意味なんだと思う。誰かを愛して、思いやれる人こそ賢いっていう話なのかなって。」 「哲学的だね。俺にはよく分かんない。サプライズのプレゼントは外した時イタイぞって話にしか思えない。」

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