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第697話 たゆたう空間 (6)

 階下からは、何をしているのかは分からないが、人がいる物音は聞こえる。佐江子が出勤準備をしているのだろう。和樹は涼矢を起こさないように気を付けながらベッドを抜け出し、服を整え、階段を下りた。 「おはようございます。」 「おはよ。まだ寝てたらいいのに。涼矢は寝てるんでしょ?」 「はい。」 「私がバタバタしてるから起こしちゃったか。」 「いや、元々、人の家だとあまり寝られないほうで。」 「あら、そうなの。」佐江子はバターを冷蔵庫にしまおうとしていた手を止める。「パン、食べる?」 「えっと……いや、あとで。涼矢と食べます。」 「そう?」バターは予定通り冷蔵庫にしまわれた。「うちに来るのは全然構わないけど、ご家族にもちゃんと元気な顔見せた?」 「はい。あ、父は海外に出張中で、まだ会えてないんですけど。」 「そうなの? お忙しいのね。」  佐江子に言われるほどではない、と和樹は思う。「海外は滅多にないんですけどね。行っても近場だし。」 「今回はどこへ?」 「上海だったかな。」 「いいね、中国は行ったことないや。」 「俺は、海外、一度も、どこにも。」 「若いうちに行くといいわよ。まさに世界が広がる。」 「行きたいですけど、俺、語学、全然ダメだし。」 「そんなの、行っちゃえばなんとかなるって。」佐江子はジャケットを羽織り、鞄を手にした。いよいよ出勤するようだ。「と、言いたいところだけど、まあ、最低限の英語ぐらい話せたほうがいいし、その国の歴史とか文化とか、ある程度は知っておくに越したことはないわね。」  部屋を出て玄関に向かう佐江子の後を着いていきながら、和樹は「涼矢は英会話の勉強してますもんね。」と返した。 「へえ、あの子、そんなことしてるんだ。」 「知らなかったですか? スカイプで。」 「ふうん。私がいくら言ってもしようとしなかったのに。留学だってなんだって行きたければ費用出すって言ってるのに、その気ないみたいだし。」 「俺も何も言ってませんよ。……哲の影響じゃないですか?」  佐江子はパンプスを履き、振り返る。「麻生くん?」 「ええ、そう。あいつ、今、留学中だから。」 「道理でアリスの店に行っても見かけなくなったと思った。」  和樹は、佐江子と涼矢の間で、哲についての話題がのぼっていなかったことに安堵した。けれど、同時に、涼矢が突如始めて、そして、それなりに長く継続している英会話の勉強の動機が哲の影響であるらしいことには落胆する。「俺も、留学とまでは言わないけど、海外に行ってみたいです、いつかは。」 「いつかなんて言ってないで、学生のうちに涼矢とでも行ってきたら? 社会人になるとなかなか長い休みも取れないしね。」 「え。」どう答えるのが正解かを戸惑っているうちに、佐江子は行ってきますと颯爽と出て行ってしまった。 ――今、「涼矢と」って言ってたよな。  和樹はもう誰もいない玄関に佇んだ。公認の交際ではあるが、まさかその親から海外旅行まで勧められるとは思っていなかった和樹だ。言われるまで2人での旅行など考えたこともない。――いや、考えたことならある。卒業旅行に行こう。その次は新婚旅行。そんな夢物語を涼矢と語った。夢だった。少なくとも、その時点では。 『卒業旅行行って、新婚旅行行って、その次は?』  涼矢の声を思い出す。その次と言ったら特別な旅行じゃなくて、普通の旅行だろうと答えたら、涼矢はその「なんでもない旅行」が楽しみだと言っていた。その頃には2人で暮らしていて、2人とも働いていて、たまに連休の都合がついたりして、じゃあ行こうかと思い立って行くような旅行が。  涼矢は「旅行」が楽しみだと言ってわけではないのだ、と今更ながらに和樹は思う。今は「2人で過ごす時間」こそが特別だけれど、その頃はもうそれが日常。そんな暮らしを楽しみだと言っていたのだ。  和樹は洗面所に行く。用意周到なことに、そこにはどこかのホテルから持ち帰ったらしいアメニティ一式が置いてあった。ホテル名の入った薄手のタオルに、使い捨ての剃刀と歯磨きセット。佐江子がしたことだろうか。和樹はそれで髭剃りをし、顔を洗った。  それから再び2階に戻る。涼矢の部屋に入ると、涼矢はまだ寝ていた。 「いつまで寝てるの。」涼矢の鼻をつまむ。ケホッと軽く咳をして、涼矢が目を覚ました。「おはよ。」と和樹が言ったのにも関わらず、涼矢は口が隠れるほど掛布団を引き上げて、また目をつぶる。「こら、起きろよ。もう9時過ぎてる。」 「休みの日は10時まで寝てる。」目をつぶったまま涼矢が言った。 「腹減ったんだよ。起きろよ。」 「適当に食えよ。パンぐらいあるだろ。」 「なんでおまえんちで、おまえがいて、1人で朝飯食わなきゃならないんだよ。」  涼矢は目をパッチリと開けた。相変わらず口元は布団に隠れていて目しか見えないが、笑顔になったのは分かる。「起きる。」 「急にご機嫌だな。」 「うん。」涼矢はテキパキと体を起こした。「和樹が可愛いこと言ったから。」 「そうか?」 「うん。」

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