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第699話 たゆたう空間 (8)

「うん。学食も3ヶ所ぐらいあって。それと別にカフェテリアもある。」 「あ、学食。学食行ってみたい。夏休みでもやってるかな。」 「やってると思うよ。」  和樹はあたりをきょろきょろと見まわして「広いな。」と繰り返した。 「向こうには農学部の農園もあるよ。」 「すげ。」 「たまに産直野菜、売ってる。」涼矢が笑った。 「いいな、学部いっぱいあるの。俺のとこ、文系しかないから。」 「でも、都会の街なかにあって、いくらでも行くところあるだろ。ここは、ここしかない。周りに何もない。」図書館の前にたどりつく。すぐ目の前を欧米系の顔立ちをした男性が通り過ぎた。留学生だろうか。それを見て涼矢は和樹を振り返る。「ああ、哲がバイトしてた、外国人向けのホテルはある。見に行く?」あの雑居ビルのような建物を見れば、和樹が要らぬ心配もしないだろう、とも思った涼矢だった。 「いや、いいよ、別に。」 「土曜日だったら、鍋パーティーでもやってたかもしれないけど。」 「この暑いのに鍋。」 「真夏以外は鍋だって言ってた。」 「真夏だろ。」  涼矢は空を見上げた。昼時の太陽がギラついている。「そっか。夏だな。」 「おまえ、家に引きこもってお勉強ばっかりしてるだろ。」 「正解。」  中に入ると、涼矢は何やら和樹の見慣れない機械の前に立ち、スマホの画面を見ながら、その機械の操作を始めた。涼矢の手元を覗き込むと書名などを入力する画面が見えた。 「蔵書検索。」和樹は機械の画面に表示された文字を読んだ。 「うん、そう。」そして、涼矢のスマホには書影とタイトルがちらりと見えた。しばらくすると機械からレシートのような紙片が出てきた。「ちょっと待ってて、書庫の中みたいだから、出してもらわないと。」と涼矢が言い、受付カウンターに向かう。和樹は後についていく。涼矢が受付のスタッフにその紙を渡すと、スタッフは後方の別のスタッフにそれを告げる。「じゃあ、あとでまた来ます。」と涼矢が言った。 「用意しておきます。」とスタッフが答えた。 「ほかのはこっち。」と涼矢が小声で言い、今度はずらりと書棚の並んだ広い部屋に向かった。分類番号順のその棚から、「320.法律」と書かれた棚の前で涼矢は足を止めた。和樹はなんとなく所在なく、キョロキョロするしかない。そして、隣が「330.経済」の書棚であることに気付くと、その前に立った。 「これ、持ってる。」と1冊取り出したのは、1年生の時に教科書として購入した本だ。気分的には「買わされた」と言ったほうが近い。裏表紙を見て、3,000円近い価格を確認する。「たっけえよな、こういう本って。」 「ほんとだよ。だから全部は買ってられない。」涼矢は既に3冊ほどを抱えている。 「一生読まないかもしれないのに。」 「まあね。こういうのって、必要な時に必要な項目だけ参考にするんで、小説みたいな読み物じゃないしな。」4冊目を手にする。「よし、揃った。」  和樹は慌てて取り出した本を元の位置に戻した。  涼矢はカウンターに戻って、さっき書庫から出してもらった本と合わせて貸し出しの手続きをした。その間に、和樹は見よう見まねで蔵書検索機を操作した。書名には「賢者の贈り物」。訳者や出版社違いのバリエーションがあるようで、候補がいくつか表示された。洋書はその中には出てこなかった。調べ方が違うのかもしれない。 「お待たせ。」涼矢の声が背後から聞こえてきて、和樹は「検索終了」ボタンを押した。  結局6冊の分厚い本を手にして、図書館を出た。「まずった。これが入る袋がない。」 「いったん車に置いて来れば。」 「そうだな。ごめん。和樹、どうする? 一緒に車に戻ってもいいけど、そのへん見て回ってる?」 「ぶらぶらする。」 「了解。」  こうして和樹は1人、見知らぬ他大のキャンパスを徘徊することになった。 ――涼矢と哲が出会った場所。  そんな風に思うと、複雑な思いだ。  図書館周辺だけをくるりと一周して、元の場所に戻る。ここからあまり離れると戻ってこられる気がしない。「ここどこだ?」なんてことになったらまた、涼矢に「方向音痴」とからかわれる。結局近くのベンチに腰かけた。  夏休みだけれど、学生はそこかしこにいた。この暑さの中、詰襟の学ランを着て歩いている集団が横切って行った。応援団だろうか。不思議な形のバッグを背負っている女の子もいる。バッグに印刷されたサークル名らしき文字を見て、それがラクロスの道具であるらしいことを察した。  和樹の所属する学祭実行委員会も、夏休み中に何回かのミーティングと合宿があるはずだった。だが、参加とも欠席とも返事をしないまま今日に至っている。鈴木や渡辺には悪いが、どうもあのサークルには馴染めきれないでいる。かと言ってきっぱりやめる決意もしていない。友人知人の少ない東京で、せっかくいったんはつながった縁を自分から切る気にはならないのだ。いっそ宮脇の創設したLGBT学生のサークルに正式に入ろうか、とも考える。でも具体的に何をやるのかが分からないし、それを質問すれば入部しないわけにもいかないだろう。涼矢のように「勉強があるからサークルはやらない」と明確な意志があるわけでもない。ぐるぐると考えては踏み出せなかった。

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