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第724話 何日君再来 (14)
7月中には東京に戻ると言っていた和樹だが、その話を持ち出すたびに恵がしきりに引き止める。それならもう1日、と繰り返すたびに、ついには31日になってしまった。ほとんど毎日何かしら口実を作っては涼矢の家に入り浸り、時には泊まってもいた手前、母親孝行はできていない。そんな自覚がある上に、こちらにいれば恵か涼矢の食事にだって自動的にありつけるし、やはり東京よりは楽をしていられて、ついつい居座り続けていた。
「明日からパートだっけ。」と和樹が言った。
「言わないでよ、緊張しちゃうじゃない。」と恵が言う。だが、そのことの不安があるから自分を引き止めていたのではないのか、と和樹は思う。
「言っても言わなくても明日からってのは、変わらないんだから。」
「そうだけど。」恵は皿洗いをしている。「ずっとお皿洗いしていたいわ。誰とも顔合わせないで。」
「食洗機でしょ、店は。」
「そうなの?」
「ファミレスは普通、そうなんじゃない? そもそも、キッチンなの? ホール?」
「ホールって言われたと思うわ。お客さまの注文取ったりするのは、そっちよね?」
「じゃあ、どっちにしろ皿洗いは仕事に入ってないだろ。」
「そうなの?」
「だと思うけど。」恵がいったいどこまで理解しているのか、和樹のほうが不安になる。
突然恵が言い出す。「食洗機って、お皿洗う機械のことよね?」
「そう。」
「それなら手荒れしなくていいわよねえ。」最後の皿を洗い、今度は水切りカゴの中のそれらを拭きだした。
「手荒れするの?」
「するわよ。今はまだいいけど、冬場はね。」
和樹は涼矢の家に取り付けられるはずだった食洗機に思いを馳せる。佐江子が欲しがっていたというあれだ。「食器洗い機、欲しい?」
「もちろん欲しいわ。和樹がプレゼントでもしてくれるの?」恵は悪戯っぽく、ウフフと笑った。
「そうだなぁ、就職して、初任給……は無理かな。初ボーナスでも出たらね。」
「あら、本当? 嬉しいな、その言葉、忘れないでよね。」
「いつになるか分からないけど。」
「3年後じゃないの?」
「順調に行ったらの話だろ。就職だってどうなるか分かんないのに。」
「もう、せっかく東京の大学まで行かせてあげてるんだから、分かんないなんて言わないでよ。」恵はそう言ってまた笑ったが、ふと暗い顔になる。「でも、そうねえ、順調に良い会社に入れても、東京で一人暮らしするのはお金かかるでしょうしね。新入社員にそんな余裕はないわよねえ。」
「え。」
「え、って、あなた、東京で就職するんでしょ?」
「いいの?」
「こっちで就職してくれたっていいけど、あなたはそうしたいんじゃないの?」
「……そんな、はっきり決めては。」
「そうなの? お母さんは、和樹が東京の大学受けたいって言い出した時から、そのつもりなんだって思ってたわよ。」
最初は受験そのものを反対された。宏樹が口添えをしてくれて、許してもらえた。親の反対の理由も、宏樹の後押しの理由も、同じだった。「和樹は考えが甘くて、すぐ人に頼る」というものだ。だから都会で一人暮らしなんぞさせたらどんな危ない目に遭うか分からない、というのが反対の理由であり、だからあえて一人暮らしをさせて世の中の厳しさを身を以て知ればいい、というのが後押しの理由だ。
いったん許してくれてからはとやかく言わなくなった両親だが、思えばいよいよ旅立つ日が近づいてきた2年前の春――そう、涼矢とつきあいはじめたあの頃――恵は淋しさを隠さずに訴えていたものだ。たかが大学の4年間、しかも年に一度や二度は帰省するというのに、何がそこまで淋しいのかと思っていた。だが、恵にとってあれは、18年間育ててきた息子との決別の時だったのだ。
「たぶん、そうなるとは思うけど。……就職口の数からして違うからさ、やっぱり。」
「でしょ?」
「兄貴には悪いと思ってるけど。」
「あら、どうして?」
「ヒロだって、東京、一度は住んでみたかったかもしれないし。」
「そうしたければしたでしょ。私だって宏樹だったら最初から反対しなかったわ。」
「なんで。」
「宏樹はちゃんとしてるから。あの子が決めたことなら安心できるもの。」
「え、なんかそれ、ひどくない?」和樹は笑った。
恵も笑う。「あの子はねえ、確かにいろいろ我慢してると思うけど、でも、本当に嫌なことはやらないし、結局は自分のやりたいようにやってると思うのよね。小さい頃からそうだったわ。自分がもらったおもちゃをあなたが横取りして遊んだりするでしょう? でも、我慢するのよ、あの子。その上で、僕はお兄ちゃんだから我慢するんだってアピールも上手。でも、本当に大事なもの、触られたくないものは、あなたの手の届かない場所に隠してたりするの。みんなはあなたのほうが要領がいいって言ってたけど、宏樹のほうがずっとうわて。考えてもごらんなさいよ、宏樹の部屋のほうが広いし、テレビだってゲームだってあるじゃない? あの子は欲しいものは手に入れる子なのよ。」
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