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第732話 オトナトコドモ (5)

「そう?」と和樹が心配すると、明生は見たいテレビがあるから急いでいるのだと言った。「そっか、それならいいんだけど。様子がずっと変だったからさ。引きとめて悪いね。」 「あっ、はい、すいません、ありがとうございます。じゃっ。」明生は早口でそう言うと、階段を駆け下りて行った。 ――やっぱり、少し変だ。  階段は、外壁と同じ材質のコンクリート壁が胸元近くまであるけれど、その上は開いている。和樹の身長なら少し身を乗り出せばビル下の様子を覗き込めて、走り去っていく明生の後姿が見えた。明生が横断歩道の手前まで来た時、不運にも信号が赤に変わろうとしていた。無理に渡らなければいいが、と思って見ていると、明生はちゃんと立ち止まった。動揺しているように見えた明生だが、そこまで冷静さを欠いているわけではなさそうだ。そこでひとまず和樹は安堵して、持ち場へと戻った。  涼矢からの電話がかかってきたのは、日付が変わろうとする頃だった。 ――お疲れ。今、大丈夫? 「ああ、ちょうどいい。風呂から出たとこ。」 ――バイト、どうだった? 「いつもの倍ぐらい授業あってバタバタしちゃったけど、1日の流れは分かったから、明日以降は楽になると思う。」  ほら、やっぱり、と涼矢は思う。バタバタしたとは言うものの、すぐさま明日からは大丈夫だと胸を張る。それが根拠のある自信なのか、虚勢なのかは分からないけど、明生に話した通り、和樹は愚痴も弱音も吐かない。 ――明生くんたちのクラス? 「……も、やるし、他の学年もやるよ。」 ――大変。 「授業はそんなでもないんだけど、採点業務がね。翌日返却して、それの見直しからやるからさ、その日のうちに採点しないといけない。後半は作文もあるから、それの添削が大変かもなあ。」 ――作文添削までやるの? 「うん。作文って言っても、短いけど。新聞記事を200字とか400字とかにまとめさせる。」 ――ああ、やったなあ、そういうの。 「そう、要旨をまとめましょうって、あれ。」 ――読書感想文よりはマシだったけど。 「そうなの? 俺、感想文のほうが好きだった。」 ――感想なんて何書けばいいか分かんないよ。 「思ったこと書けばいいんだから楽じゃん。作者の意見をまとめるのは作者の立場になって考えないといけないけど、感想は、自分の気持ちなんだから。」 ――でも、なんとも感じませんでしたとか、つまんなかったとか書いたらダメでしょ。  和樹は笑う。「そりゃな。」 ――だから国語、苦手。 「俺より難しい本読んでるだろ。六法全書とか。」 ――あれは感想文書かされないからな。 「……まあ、そんなことはともかく。そっちはどうだったの、今日。」 ――うーん、まあ、普通に。 「なにごともなく。」 ――なく。 「淋しかったろ、俺がいなくて。」 ――うん。 「素直だな、こういう時は。」 ――いつも素直だろ。 「そうかぁ?」 ――和樹こそ、淋しくなかった? 「忙しくて、そんなこと考える暇なかったな。」 ――あっそ。 「あ、そう言えは、明生がなんか変だった。俺と目を合わせようとしなくて。おまえ、何か聞いてる?」 ――いや、別に。講習頑張ってねって送ったら、頑張りますって。そんな程度。  涼矢は嘘をついた。 「そっか。まあ、なんか気になること言い出したら、教えて。」 ――ああ。  現時点で言えば、逆に明生が涼矢の手先となり和樹をスパイしている状況だ。これを続行して明生という情報源を確保しておくことと、和樹の心配を軽減してやるために明生情報を教えること。その2つを天秤で量り、前者を選んだ涼矢だった。  和樹は涼矢を疑うこともせず、翌日からの授業に臨んだ。この日は明生の様子にも多少注意を払う余裕ができた。だが、明生は至って普通で、変に照れたり避けたりといった様子はない。この分だと、見たいテレビがあるからソワソワしていただけ――講習初日のあの言葉は事実だったのだろう。そう結論付けて、和樹もまた以前のように明生に接した。  とはいえ、この講習で、明生が大きな変化を遂げたのは事実だった。和樹に対する態度ではない。それまで平均点をウロウロしていた成績が急上昇したのだ。中期タームの終わりには塾内での確認テストを、後期タームの終わりには他塾も参加する全国規模の模試を実施したが、そのどちらにおいても好成績を収めた。特に国語では一気に上位圏に入る勢いだった。  本人より一足早く結果を見た和樹は、それが自分の講師としての評価でもあるように思えて、嬉しくてならなかった。 「こんなに急に成績上がるなんてこと、あるんですね。」と和樹が話しかけたのは、久家だ。もう授業は終わり、生徒はいない。何人かの講師が残って仕事している。 「特に男子は多いね。女子は日頃からコツコツやる子が多いから、短時間で急激に上がることはあまりないんだけど、男の子は目標を見つけると俄然張り切ったりするから。」 「てことは、塩谷、何か目標を見つけたんですかね。」 「そうかもしれませんね。私の授業でも熱心にやってますよ。相変わらず一番後ろの席だけど、以前とは集中力が違います。」

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