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第733話 オトナトコドモ (6)
塾の座席は生徒が自由に選んでよく、明生はいつも最後列に座る。時期外れに入塾してきて、最初に座った席が最後列だったから、そこが落ち着くのかもしれない。以前の明生はテキストの片隅に落書きをしたり、ぼーっと窓の外を眺めていたりと集中力に欠くこともあったけれど、確かにこの夏期講習中はそういった態度は見られず、和樹も久家の言葉には共感した。
――もしかして、俺に気に入られるために? ……なんて、思い上がりだよな。中学生がそんな理由で張り切って勉強なんかしねえよな。
和樹がそんなことを考えた時、久家が声を潜めて言った。「前期はそうでもなかったから、やっぱり都倉先生効果かな。」
「えっ。」
声を潜めても、通りの良い久家の声は隣の森川にも聞こえたようだ。
「あ、塩谷くんでしょ? 彼、都倉先生のこと好きですよね。数多 いる都倉先生ファンの中でも、彼はもう、一種の信者というか。」
「その表現はいかがなものかと思いますよ。」と久家がたしなめた。「信者」という単語に対するものだろう。
「じゃあ、熱狂的ファン、かな。」
「そ、そうですか? そんな風に見えます?」和樹は狼狽えた。
「だって、この講習、前期の国語が僕の担当だって聞いた時の彼の顔、あからさまにガッカリしてるんだもの。普段の授業も都倉先生がいる日といない日じゃテンション違う。よっぽど好きなんだなあって。女子はちょいちょいそういう子いるから分かるけど、男の子でそういうの珍しいから。」
「同性から見ても恰好いいですからね、都倉先生は。いいんじゃないですか、動機が何であれ、やる気になるのは。こうして結果にも反映したとなれば、もっとやる気が出るでしょ。彼、まだまだ伸びますよ。都倉先生もこの調子で頑張ってください。」久家が模試の結果表を差しながら言う。
久家の言葉は、にわか講師の和樹への励ましであると共に、森川の話をエスカレートさせないためのものでもあるのだろう、と和樹は思った。――たとえば、明生は和樹に対して憧れや敬意や思慕以上の気持ちがあるのではないか、といった領域に踏み込ませないための。
「さて、と。僕はそろそろ失礼します。また明日、よろしくお願いします。」森川が立ち上がった。
「はい、お疲れ様。」久家が言う。受付兼事務の菊池は今週は休みで、いつもは土日を担当している別の女性事務員が来ているが、その彼女も今日は既に退勤していた。小嶋と早坂はさっきまで席にいたものの、今は上の階に行っているようだ。
和樹は周りを見回し、今この場にいるのは久家と自分だけであることを確認すると、おずおずと切り出した。「塩谷くん、久家先生の目から見てどうですか。そんなに、目立ちますか。」
「それは、都倉先生と接する時の態度についてのご質問ですよね?」
「……はい。」
「そうですね。森川先生が気が付くぐらいですから、彼が都倉先生に懐いているのは誰の目にも明らかではあります。でも、お気に入りの先生にまとわりつく生徒は別に珍しくありませんよ。」
「でも、男子では珍しいって、森川先生が。」
「そんなことないですよ。森川先生、塩谷くんが入塾するかしないかって時、説明会や体験授業を担当してましたからね、自分が引き入れた生徒って意識が強いんですよ。それなのに自分より都倉先生に懐くのが面白くないんだと思います。取られちゃったみたいで。」
「そんな、取るなんて……。」
「塾講師だって人気商売ですから、そんな気持ちになることもあるんですよ。ま、そんなに気にすることないです。……ああ、でも、そうだなあ、森川くんは気にしなくていいけど、塩谷くんのほうはね。都倉先生が引っ掛かりを感じるのなら、少し、気を付けてあげたほうがいいかもしれないな。」
「気を付ける?」
「大人として、やっぱり、線を引いてあげないと。あくまでも先生と生徒なんだっていうね。」
「それは具体的にはどうしたら……?」
「まずは徹底して個人的な話はしないことです。直接の連絡先を教えるのは論外。早坂がこの点に厳しいのは、そういう問題も起こりうるからです。」
「そう、ですか。」もう既に涼矢と連絡を取り合っている明生に、今更個人的な話をしないというわけにはいかないだろう。
浮かない顔の和樹を見て、久家が続けた。「もしくは逆に、彼にだけ本当のことを伝えるという方法もあります。君が特別な生徒だから特別に教えるけど恋人がいるんだ、って。友達や恋人にはなれなくても特別な存在だと伝えることで、満足して落ち着くこともあります。もっとも、この方法は特別扱いを勘違いしてしまう恐れもあるし、何かのはずみで裏切られたと感じた途端に、その秘密を暴露されてしまうかもしれない。そんな諸刃の剣ですからお勧めはしません。……結局は、今まで通り、余計なことはせずに淡々と接するのがいいと思います。」
「はい。」
そう答えながらも、和樹は迷っていた。今の明生は、少し前のような、あからさまな態度は取ってこない。だから、彼の恋心は一過性のもので、もうその熱は落ち着いたのだとばかり思っていた。けれど、今日もこうして森川に指摘され、久家も明生の好意については否定しなかったところを見ると、傍から見れば「都倉先生大好き」な明生の態度に変化はないということなのだろうか。自分が明生のそういう態度に慣れてしまっただけで、何も解決していなかったのだろうか。
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