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第734話 オトナトコドモ (7)
だとしたら、久家の言うように、何かしらの「線引き」をしてやる必要はあるのかもしれない。それも、明生を傷つけぬよう、明生だけに伝わる方法で。他の生徒にも、他の講師たちにも知られないように。――秘密を抱えるのは涼矢のことだけでも手いっぱいなのに、その上、更に明生のことまで1人でため込むというのは、正直、辛い。いや、ため込んでるというのとは少し違う。涼矢の存在も、その関係も、明生には伝えてしまっている。つまり、久家の言う「諸刃の剣」は既に使用済みなのだ。それでもまだ、不十分だと言われてしまうとどうしていいか分からなくなる。
和樹は手元の模試の結果を再度見た。今までの成績の推移がグラフになっている。前回の結果から急な角度で右上がりになった明生のグラフ。
水泳教室の時もそうだった。コツコツ頑張って、誰よりも泳力をつけた明生。それを褒めるとはにかんで笑った。あの時からずっと自分を憧れの眼差しで見てくれる少年。可愛く思わないはずがない。
そんな明生を相手に、大人の狡猾さで「うまく距離を置こう」「適度におだてて勉強のやる気はキープさせよう」といった気持ちで接するのは、どうにも気が重い。もっと何か、方法はないものか。もっと誠実な方法が。
そんな気持ちになったのは初めてではない。
――涼矢の時だって。
和樹は思い出す。涼矢が震える声で告白してきた日のこと。「友達のままでいようよ」、そう言って終わらせることもできたはずだった。でも、しなかった。したくなかった。「2度と会わないようにするから、思いを告げることだけは許してほしい」、そんな悲痛な覚悟で語る涼矢の恋心を、そのままにはしておけなかった。
でも、どうしていいか分からなくて、宏樹に打ち明けた。1日でも彼のために心を砕いてやれ、そうすれば相手も気持ちに区切りがつけられるだろう。そう言われて、デートをした。結局それは区切りではなく、逆に「始まり」となったのだけれども。
そうは言っても、明生とデートするわけには行かない。一介のバイトとはいえ、立場というものがあるし、何しろ相手はまだ中1のこどもだ。
和樹は大きなため息をついた。せっかくの好成績の結果を前にして、心から褒めてやる気になれない。それがまた明生に申し訳なく、後ろめたい。
その結果表は、翌日の夏期講習最終日に配ることになっている。
――どんな顔してやりゃいいのかな。
和樹はもう一度ため息をついた。
その日の夜も、また涼矢から電話がかかってきた。
――なあ、バイトっていつ終わるんだっけ。
「明日。」
――明後日からの予定は?
「特にない。」
――じゃあ、明後日、そっち行っていい?
「え。急だな。いいけど。」
――だって和樹が来いって言わないから。
「いつでもいいって言ってるだろ。」
――行ってもバイトでいないんじゃ意味ないだろ。だから予定を教えろって言ったのに。
「俺がバイトあろうとなかろうと、涼矢は好きにしてていいんだからさ。どうせ勉強するだけだろ? パソコンとテキスト持って来れば、家でもここでも同じだろ。」
――勉強するだけでいいのかよ。
「他になんかすることあるの? あ、また見たい美術展でも……。」
――馬鹿、違うよ。メシ作らなきゃだし、掃除とか、洗濯とか。和樹んち行くと忙しいんだからな、俺。
「頼んでねえし。」
――聞き捨てならないな。そういうこと言うなら行くのやめよう。
「嘘、嘘です、涼矢くん。」
――で、どうなんだよ。
「どうって?」
――行っていいの?
「是非来てください。」
――最初からそう言えよな。
「はいはい、すみません。」
――なんか欲しいものある? 食いたいものとか。
「食いたいものはお任せする。欲しいものも特にない……あ、そうだ。」
――うん?
「明生に会ってくれねえかな。俺と3人で。」
――どういうこと?
「模試やってさ。結構良い点取ったから、そのお祝いっつか。」
――そんなの、先生が個人的にお祝いしたりしていいのか?
「んー。よくないね。教室長からはダメって言われてる。」
――それなのに?
「ん……ちょっと、思うところがありまして。」
――なんだよ、もったいつけて。
「明生さ、やっぱその、俺のこと好きなんだと思う。」
――そうなんだろうな。
「成績上げたのも、自分で言うのもなんだけど、俺に認めてほしい、みたいな? たぶんそういう理由もあったと思うんだ。」
――いいことじゃないの?
「うん。いいことだよ。でもさ、塾で、他の先生から、明生は俺の信者みたいだって言われてね。」
――信者ってひどいな。憧れてるだけだろ。
「うん。まぁ、俺はファンでも信者でもいいんだけど、つまりね……他の人から見ても、明生の俺に対する態度って、そんなにバレバレだったのかと思うと、怖くてさ。俺のことじゃないよ、明生がね。俺がうまく立ち回って距離を置ければいいんだけど、クラスだって受け持ってて、そういうわけにもいかないし。」
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