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第735話 オトナトコドモ (8)
流暢に話す和樹だが、内心ではヒヤヒヤしていた。明生は昔の涼矢と重なる。家庭教師に恋をして、そしてその彼を失った。その経験は間違いなく涼矢に深い傷を残したはずだ。今はもうその古傷もだいぶ癒えたと信じたいところだが、明生について語ろうとすれば、きっと疼くことだろう。
それともうひとつ。明生の恋の相手は和樹自身だ。涼矢が中学生の明生に本気でライバル心むき出しで対抗するとは思えないが、手放しで喜べる状況でもないはずだ。
――涼矢。俺は、昔のおまえが経験したような辛い思いを、明生には味わわせたくないんだ。この気持ちが間違っているとは思わない。でも、そのままおまえにぶつけていいとも思えない。だって俺は、誰よりも「今の」おまえに、辛い思いはさせたくないから。
――どちらかしか選べないなら、迷わず涼矢を選ぶ。でも、できることなら、涼矢も明生も傷つけることなく、明生に諦めてもらいたい。そんなのって虫のいい話、なのかな。
和樹は言葉を慎重に選びながら話を続けた。
「明生も周りからそんな風に見られてる意識はないと思うんだ。でも、もし、この先、状況がエスカレートして、同級生にからかわれるようなことがあったらかわいそうだろ? 中3の女子にも気ぃ強いのがいてさ、そんなのに目をつけられたら、塾だけじゃなくて学校生活にも影響出ちゃうし。」
――でも、和樹から見る分には、普通なんだろ? 抱きついてくるとか自宅まで着いてくるとか、そういう実害もないわけだろ?
「ないない、そんなことは全然ない。塾の授業だって、俺から遠ーく離れた一番後ろの席を選ぶしね。……でも、俺は当事者だからさ、懐いてくる明生に慣れちゃって、ちょっと麻痺してるのかも。」
――で、なんでそこに俺?
「それは……。」
――俺も似たような経験してるから? 渉先生のことで。
はっきりと言葉にした涼矢に、和樹はたじろぐ。初めて和樹に彼のことを話した時、涼矢はただ「家庭教師の先生」と表現していた。いつだったかその人の名が「渉」であることを知り、そして、いつの間にか和樹に対しても固有名詞で言うようになった。2人が出会う前にこの世からいなくなった人なのに、生きている人以上に存在感がある、と和樹は感じていた。
「そういうわけじゃない。」和樹は唾を飲み込んだ。「似てるとこはあるかもしれないけど、いっしょくたにはしてないよ。涼矢は涼矢だし。ただ、俺とおまえが一緒に遊んでやって、そんで、おまえと俺の間に入り込む余地ないって実感したら、自然と離れてくれるかな、って。」
――……そう。それで明生くんがどうなるかは分かんないけど、和樹がそうしてほしいなら、いいよ、つきあうよ。でも、3人で会って何するの? 俺、今時の東京の中学生のことなんか全然分かんないし、そもそも、そんな風に特別扱いして大丈夫? 明生くん、和樹と近づけた気になって、余計にベタベタするようになったらどうすんの。
「それは、何か、考える。」
――は? まさか、現時点でノープランなのかよ。
「……うん。でも、大丈夫だって。なんとかなるよ。」
――ホントに?
「ホントホント。だって、おまえとの初デートの時だって、なんとかなったじゃない?」
――えー……。
「なってなかった?」
――あれはおまえ、ひどいだろ。いきなりキスしてくるわ、押し倒すわ。
「ひどい? 嫌な記憶だって言うなら謝るけど。」それを聞いた涼矢が、ぐ、と言葉を飲み込む気配がする。「なんて、冗談。明生相手にそういうことはしないから。」
――当たり前だ、馬鹿。
「はは。……まあ、どっかでメシ食って、ゲーセンとかカラオケとか連れてってやってさ。そんなんでいいと思うよ。」
――思い出作りをしてやるわけだ。
「強いて言えば、そう、かな。」
思い出作り。一見温かなその言葉の真の意味は、「もう俺のことは過去の思い出にしろ」と引導を渡す、ということだ。その残酷さを、和樹も涼矢も知っている。
――分かった。そのつもりで、東京、行くよ。
「うん。あ、このこと、明生にはまだ言わないで。計画立ててから。」
――ああ。
その先は少し他愛のないことをしゃべって、この日は電話を切った。
翌日の塾では、なかなか明生とこっそり話せるチャンスがなく、結局和樹の授業が始まる直前になんとか明生をつかまえて、そっと耳打ちした。
「授業の後もそのまま教室に残ってて。」
夏期講習はこれが最終日だ。しかも和樹の授業は最後のコマだった。これを逃すと、明生たちの中学が2学期を迎える9月まで塾には来ない。
和樹の耳打ちのせいか、明生は途端にソワソワとしている。ここのところの夏期講習では落ち着いていたから、そういう明生は久々に見る気がした。――もしかして以前は、俺の前でだけこんな様子だったのか? だとしたら、そりゃあ周りの人も気づくだろう。
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