762 / 1020

第762話 夏の終わり (9)

 明生の逃げた先は和樹だった。和樹の背中側に回り、盾にするようにしがみつく。かと思えばハッとしたような顔になり、和樹の脇腹をつついた。「先生、結構ムキムキだね。」  和樹はそれを嫌がるでもなく、逆に得意気だ。「おう、今もちゃんと腹筋してっからな。てか、おまえ水泳教室で見てるだろ、俺のパンイチ。水着だけど。」 「あんたのパンイチなんて、あたしだって散々見たわよ。」とエミリまでもが言い出す。  涼矢はそれを複雑な思いで見ていた。年上の先生に焦がれる同性の少年。彼をかつての自分と重ねた。俺が俺がと前に出るタイプではないところも自分によく似ていると思った。だから、放っておけなかった。せめて気持ちの吐き出し口になれればと連絡先を教えた。実際それは明生の役には立ったとは思う。今こうして一緒にテーマパークにまで遊びに来て、楽しそうにはしゃいでいるのがその証拠だ。  でも、明生のそんなはしゃぎぶりを見ると、取り残された「かつての自分」が顔を出す。狭量なことだと思うが、誰にも気づいてもらえず、手を差し伸べてもらえなかった自分が哀れに思えてならない。だって先生が好きなんだから。そんなことを初対面のエミリにまで軽々と言える明生が羨ましかった。和樹の脇腹をつついて笑える明生が妬ましかった。  俺のほうがずっと前から和樹を見てた。何年もかけて、和樹の名前を呼び、好きだと伝え、理由がなくても隣にいることを許された。俺のほうがずっと好きだ。そんな馬鹿げた張り合いをしてしまいそうになる。 「高校の頃ほどムキムキじゃないけどな。そうだ、俺、明生のパンイチも見てるけど、おまえはもうちょっと鍛えたほうが良いな。」 「明生のパンイチか、いいなあ。」 「エミリ、発想がオヤジ。」  和樹とエミリの掛け合いがうんと遠くに聞こえる気がする。この輪の中に自分だけが入れていない気がする。 「競泳用に見慣れると、あのスク水が逆に萌えるのよ。」 「完全にオヤジ。」 「あたしより、そこのムッツリのほうがオヤジかもよ?」  エミリが涼矢を指さした。「え。」涼矢は聞こえていたはずの会話の内容を思い出そうとした。和樹の競パンの話をしていたことは覚えている。 「涼矢、今のあんたの頭の中、明生に説明できる?」エミリがニヤニヤしながら問う。 「無理。」そう答えたのは、心ここにあらずでろくに話を聞いていなかったせいでもあり、また、半裸の和樹を想像していたせいでもある。 「えー、なんでですか、涼矢さん!」明生が屈託なく聞いてきた。 「お子様には少し刺激が……。」 「僕はそんなにガキじゃないって、そう言ってくれたの、涼矢さんじゃないですか!」  そう言われて、「屈託ない質問」ではないのだと気が付いた。思えば和樹とのキスのことも気にしていた明生だった。涼矢は腰をかがめて明生に言う。「そのうちね、2人きりの時に、ちゃんといろいろ……。」そんな際どい発言は、年長者としての、そして和樹の恋人であることの誇示だ。だが、背中に痛みを感じて、その言葉は中断された。「痛てっ!」  叩いたのは和樹だった。「おまえ、そういうの、犯罪だろ。未成年にそういうことしちゃいけないんだろ。」 「淫行条例? 合意があれば大丈夫だよ。明生、もう13歳になってるし。」 「絶対ダメ。」和樹は涼矢にそう言ってから、明生のほうに向き直る。「いいか、こいつと2人きりになるなよ、絶対。」  そこへエミリが口を挟んだ。「あんたって相変わらず馬鹿。涼矢が変なことするわけないじゃない。あんたとは違うのよ。」 「俺だって変なことしないよ。」 「そうだったかな? 実はね、涼矢。あたし、和樹の部屋にいた時にね、和樹にひどいことされたの。」声色まで変えて演じるエミリだった。  和樹がエミリに向かって「おいおい。」と止めに入る。「嘘つくんじゃないよ、俺、何もしてねえだろ。」  すかさずエミリは言った。「あたしのパンツと一緒に自分のパンツ洗ったのよ、この人!」 「それはひどい。」涼矢が言った。 「おまえが勝手に洗濯機に放り込むからだろ!」 「後で自分の分だけ洗濯しようと思ってて忘れただけじゃない。細かい男ね。」 「忘れるなよ! そうだ、エミリさ、あまえ、あの、アレも忘れてっただろ! 処分に困ってんだよ!」 「何?」エミリはきょとんとしている。 「……トイレの隅っこの。」 「ん?……ああ、汚物入れ!」エミリのセリフに明生が吹き出す。 「声がでけえよ。それに、もっと洗練された言い方あるだろうが、サ、サニタリーなんとか。」 「変なことに詳しいわね。でもあれは忘れたんじゃなくて、あんたんち遊びに行く時に便利かなーっと思ってわざと置いてきたの。中はちゃんと処分してきれいになってるから。」  涼矢はあることを思い出していた。  和樹の部屋を訪れた時には、食事の支度は自分の仕事だと納得している。料理は嫌いではないから、それほど苦でもない。洗濯関連は、したいわけではないけれど、しなければ自分が不快な思いをするから仕方なくやっている。  問題は掃除だ。  そんなに広い部屋ではない。掃除機をかける程度なら大した手間ではない。だが、とにかく物が散乱している。そのくせ、和樹に確認しないとどう処理していいか分からないものが多すぎるのだ。これでは「四角い部屋を丸く掃く」ことすらできない。

ともだちにシェアしよう!