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第765話 夏の終わり (12)

 涼矢が「ヤマギシさん」の顔を思い出すと同時にエミリが言った。「ヤマギシさんって、超真面目で大人しい……こう言っちゃなんだけど、すごく地味だった子よね? 和樹、つきあってたの?」  「ヤマギシさん」はエミリの言った通りの子だった。取り立てて美人でもなく、人の上に立つタイプでもなく、目立たない。水泳部でもない。和樹とも涼矢とも同じクラスになったことがない。それでも涼矢がその存在を認識していたのは、彼女が和樹の「追っかけ」をしていたからだ。  水泳部の練習と言えば当然のようにプールで、女子生徒の水着姿の盗撮などを防ぐために、道路側には塀がある。だが、内部の人間なら、たとえば図書室の、ある一角の窓からは丸見えといったことを、知っている者は知っている。そして、その窓からの視線に気づいたとして、それが男子生徒だったら警戒されたかもしれないが、地味な女子生徒だったから、部員たちも気に留めていなかった。  下級生がファンクラブを作るほどの和樹だ、そっと見つめる女子は彼女以外にもいただろう。だが、毎回毎回、和樹がプールサイドに立つ時に限って窓際に立つのは「ヤマギシさん」だけだったし、そのことに気づくのもまた、彼女と同じように「毎回毎回、和樹を目で追っていた」涼矢ぐらいなものだったのだ。  ライバル視はしていなかった。  「ヤマギシさん」には失礼だが、和樹にはおよそ釣り合わなかった。それに同じ水泳部で活動しているのだから、和樹の相手にはなりえない点は同じだとしても、「ヤマギシさん」よりはまだ、自分のほうが和樹に近いという気持ちもあった。近いからと言って何ができるわけでもなかったけれど。  その彼女が、あろうことか修学旅行の数時間を、和樹と二人で過ごしたのだ。そんな気配など微塵もなかった。実際、その日以外に彼らが接触したという話はひとつも聞いていないから、結局それはその時限りのことだったのだろうが、何故そうなったかは涼矢も気になったところだった。その翌年の夏休み明け、「ついに都倉和樹が川島綾乃とつきあうことになった」というニュースが飛び込んできて、決定的なダメージを受けるまでは。 「つきあってないよ。その日一日だけ。だって前日の夜、俺らの部屋来て、一緒にまわってくださいって必死な顔して言うんだもん。ああいう子がそんな勇気出して来たらさぁ、応えてあげなきゃって気になるもんで。」  涼矢はため息をつく。結局それか。そんなことか。それは落胆でもあり、安堵でもあった。今の和樹の説明に嘘はないと思う。修学旅行にかこつけて言い寄ってきた子は他にもいたかもしれない。それらを断っておきながら選ぶにしては、「ヤマギシさん」はあまりに地味で、何か弱みでも握られているのかと勘繰ったこともあるが、そうではなかった。単純な話だ。「捨て身で真剣に言ってくれたから」選んだのだ。自分の時と同じだ。和樹は恋愛ゲームのように寄ってくる子を上手にかわすことはできても、真正面から必死な顔で訴えてくる子はむげにできない。 ――俺がその証拠だもんな。 ――そういう和樹だから、俺だってつきあえることにもなったんだ。もしかしたら今ここにいるのはヤマギシさんだったのかもしれない……。  そんなことを思っては、そんな考えは振り払いたくなる。それもこれも和樹のせいだと八つ当たりしたくなる。「八方美人すぎんだろ。」と涼矢は言った。 「何年前の話を気にしてんの。」 「気にしてないけど。」 「その割に事細かに覚えてるじゃないかよ。俺でさえ言われるまで忘れてたっつの。」  仔細に覚えてはいたけれど、涼矢にしてもこんな話題が出たから思い出したまでのことだ。和樹の周りには常に「ヤマギシさん」よりも気にすべき相手、たとえば川島綾乃がいたから、ずっと気にしていたわけではない。  もし「ヤマギシさん」が今の俺たちのことを知ったら、どう感じるのだろう、と涼矢は思う。俺が図書室の窓の彼女に気付いていたように、彼女も俺の気持ちに感づいていただろうか。そうだとしても、彼女は何も言わずそっと胸に秘めてくれていたように思う。――報われることなど夢見ないまま、ずっと和樹を見つめていた「同志」として。  そんな涼矢の、今更になってざわつく思いをよそに、エミリが言った。「涼矢って、もうその頃には和樹のことが好きだったわけ?」 「何だよ、急に。」涼矢は妙にタイミングの良いエミリの質問に、少し照れくさそうにする。 「好きな人のことだったら、事細かに覚えてても当たり前だなあと思うから。あたしだって、涼矢に関することならどうでもいいこと気にしてたし、つまんないこともいちいち覚えてたもんよ。あ、今はもうぜーんぶ忘れたからね。」 「そうだよ。」涼矢はぶっきらぼうに言った。「エミリの言う通り。」 「修学旅行の時には好きだったって話? じゃ、そもそもいつから好きだったの?」 「いいだろ、そんなの。」涼矢は赤面したまま、エミリから目をそらす。

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