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第775話 視線 (1)
「僕は気にしないよ。」と、明生がませた口調で言う。
「そう? でも和樹には内緒にしとこうね。うるさいから。」とエミリ。
「うん。でもさ、僕もそう思ってた。先生、涼矢さんの前だと、すっごい優しい顔する。」
「そうかなあ。」涼矢は首をかしげた。
「だって、涼矢さんは、涼矢さんの前にいる先生しか見てないから、わかんないんだよ。」
「あ、そっか。じゃあ俺はしまりのない顔しか見てないのか。」
「さあね、あたしには知りようのない別の表情もご存じなのかもしれないけど?」
そんなエミリの際どい発言を、涼矢は「ふふん」と笑いでいなす。
一通りの買い物が済んだところで、エミリがビールを買おうと言いだした。
「エミリ、もう二十歳になってるっけ。」
「うん。あたし四月生まれ。仲間内で一番先にババアになるんだよね、やんなっちゃう。」
そう言えば、三月末が誕生日の響子は、幼い頃、同学年の子との成長の差があって苦労したと言っていた。だから、三十路を迎えた時には「私はまだ二十代」と自慢するんだと言ってたっけ。そんなどうでもいいことを思い出しながら「アスリートが飲酒していいの?」と言う。和樹の部屋にいた時に毎日聞かされていたトレーニングメニューは過酷で、飲酒などしていいはずがなかった。そもそも今日のディズニーランドにしてもそうだ。急な誘いなのにすぐにOKして、ピザでもコーラでもカロリーを気にしている様子もなかった。
「いいの。」と答えるエミリの表情に、翳りがある気がした。でも、エミリが何も言わないなら、問い詰めることはせずにそっとしておこうと涼矢は思う。
「俺も成人したけど、和樹がね。」和樹が成人するまでは、自分も酒は飲まないでおこうとなんとなく思っていた。
そんな会話の中でも、明生が「先生、バレンタイン生まれだもんね。」などと自然に入り込んでくる。こんな風に、人の懐にいつの間にか入り込むところは、自分よりも和樹に近いと感じる。
「いいじゃん、あたしら二人は飲もうよ。和樹が飲めないならちょうどいいよ、全員酔っ払いじゃ明生がかわいそう。」
「女の子が酔っぱらうまで飲むんじゃありません、しかも男の部屋で。」
「こんな時ばっかり女の子扱い。ずるい。」
「だってあなた女の子でしょ。悪いけど、今日は送れないしさ、明生もいるし。」
「はいはい、わかりましたよーだ。もう、ケチ!」
エミリの口調が強いのはいつものことだが、こうしつこく絡むことはあまりない。さっき見せた暗い表情と合わせて考えると、ただの思い付きのわがままではないのかもしれない、と不安がよぎる。
「……一缶だけな。俺もそれだけつきあってやるから、それで我慢。」そう言って、涼矢は缶ビールを二缶、カゴに追加した。
三人が和樹の部屋に到着すると、辻褄合わせの掃除はなんとか間に合ったようで、和樹は機嫌よく招き入れた。が、部屋の狭さはどうにもならず、四人もいれば座るのさえままならない。涼矢はまともに座るのを諦めて、料理人に徹しようと覚悟しつつ、買ってきた物をテーブルに並べた。こちらも小さなテーブルだし、皿もコップも足りないから、しゃれたコーディネートなどはできそうにない。買ってきた茹で枝豆はパックのまま置き、ビール用のコップも省略する。
缶ビールを目ざとく見つけた和樹が「何、ビール飲むの?」と言った。
「おまえはダメだぞ、未成年。」涼矢が釘をさす。
「ずるいなぁ。」
「法律は守ってください。」
「はーい、先生。」和樹がおどけて返事をした。
涼矢は冷蔵庫から作り置きの料理を出す。「とりあえず、枝豆とこれで乾杯しよっか。」
「何これ。」とエミリが聞いた。
「ラタトゥイユ。昨日作った。」
「……涼矢が?」料理をするとは聞いていたが、想像以上に本格的な腕前に、少々驚くエミリだった。
「うん。この人、普段、野菜全然食べないから、こういう時に食べさせないと。」涼矢は和樹を横目で見る。
「食ってるよ、ラーメン屋行ったら野菜タンメンとか。おまえが野菜食え食えうるさいから。」
「お母さんみたい。」とエミリが笑った。
「本当だよ。涼矢さ、うち来るたびに、こういうのとか、いや、これはまだいいんだけど、切干大根の煮物とか、きんぴらごぼうとか、マジでおかんかよってラインナップの料理、タッパに入れて持ってくる。」
「それって涼矢の愛じゃん、愛。」エミリは更に大笑いする。笑い涙を浮かべるほどだ。
「そうだよ、俺の大いなる愛を感じろよ。」と涼矢が言うと、今度は明生が驚いてポカンと口を開けた。涼矢がそういうセリフを口にするとは思っていなかったようだ。
照れ隠しなのか、そんなことを言われた和樹は「はい、乾杯しよ、乾杯。」とペットボトルのお茶を掲げる。つられるように他の三人もジュースや缶ビールを手に持ち、乾杯した。
涼矢はビールを一口だけ飲むと、すぐにキッチンに立ち、料理の準備を始めた。
「何か手伝う?」と明生が言った。
「大丈夫。ここ狭いし。ていうか、明生は偉いよな、あっちのお兄さんお姉さんから手伝おうか?なんて言葉、聞いたことないよ。」皮肉めいた口調で涼矢が言った。
「皿洗いしてるだろ。」と和樹が言う。
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