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第776話 視線 (2)
「自分が使った食器を洗ったぐらいで家事分担してる顔されてもムカつくだけ、と、世間の主婦も言っている。」
「主婦か、おまえは主婦なのか。」
「俺、ここ来るたびに、炊事と洗濯と掃除をやらされてるよな。これを毎日やってるのかと思うと、主婦ってすげえわ。」
「やらせてねえよ、勝手にやってるだけだろ。」
「炊事は好きでやってるとこはあるけど、掃除と洗濯は仕方なくやってんだよ。そうしないと座るところもねえし、おまえの服、どれが着たやつでどれがきれいなんだかわかんねえし。おまえ気付いてないだろうけど、俺、今回洗濯槽の掃除もしたからな? なんか、ワカメみたいの湧いてきたぞ。信じらんねえよ。」
涼矢は日頃の鬱憤をここぞとばかりにぶちまけた。だが、口調ほどには怒っていない。和樹の言うように「好きでやっている」のも本当だし、和樹はそれなりに協力的だし、何かするたびに「ありがとう」とも言ってくれる。ただエミリたちの前で新婚夫婦のようにはしゃぐのが気恥ずかしい故に出てきた照れ隠しの愚痴、といったところだ。
「それじゃ涼矢、うちの学生寮に住めないよ。女だけしかいないと、ほんっと壮絶にひどいんだから。」エミリは真顔でそんなことを言った。
和樹がエミリに尋ねる。「そういえば女子寮って、門限ないの?」
「あるよ。でも、今日から帰省していることになってるから。帰省なんて、ホントはしないけどね。」
「え、じゃ今晩、どうすんの。うちには泊めねえぞ?」
「ああ、いい、いい。そんなつもりないよ。」
苦笑いするエミリに、和樹は嫌な予感がした。今夜過ごす場所の当てがあるのかと聞けば、案の定、「ネットカフェにでも行く」といった不穏な返事しか来ない。心配になり、素直に寮に戻ることを勧めた。
「いいんだって。あたし、今、あんまり寮にいたくないんだ。」エミリはうつむきがちにそう言い、ビールを手にするが、結局飲まずにまたテーブルに戻すと、はあ、と深い溜息をついた。
そんなエミリを見るのは初めてだった。「なんで? 何かあった?」
「うーん。いわゆる、アレよ。スランプ? 今年、全然結果出せてなくて、マジでヤバくてさ。寮で活躍してる子たち見るのもしんどくて。少しでも取り返したくて、バカみたいに練習してたら、逆に体おかしくしちゃって、コーチに実家で少し休んで来いって言われちゃった。でも、こんなんで実家になんか帰れないよ。」そんなことをしゃべっているうちに、語尾が怪しくなってきた。もしや泣くのをこらえているのか?と和樹が思うと同時に、激しく泣き出した。「甘えてるのはわがっでるんだけどざあ。」
「……エミリ?」エミリの急変ぶりに、和樹は慌ててエミリの前の缶ビールを持ち上げた。軽い。さっきこれを手にしてすぐ戻したのは、気が変わったのではなく、「既に空になっていたから」だったのだ。「一気に飲んだな? おい、エミリ、そんなに弱いなら一気飲みなんかするなよ。」つい、きつく咎める口調になる。
「わがっでるわよう、あだしがわるいのよう。全部あだしのせいよう。」エミリはテーブルに突っ伏して、更に激しく泣き始めた。
「うわ、エミリ酒癖悪っ。涼矢、これ、どうすればいい?」
さすがに涼矢も近くまで寄って様子見をしている。「とりあえずベッドに寝かせてやったら?」
「そうだな。おい、エミリ、寝ていいから、ベッドまで一瞬立ってよ。」和樹はエミリの背後に回って、肩に手をかけた。だが、本人の意志がないことには、これ以上はどうしようもない。もちろん、しっかりと抱きかかえれば、すぐそこのベッドへの移動ぐらいは可能だ。ただ涼矢の眼前でそれをやる勇気は出なかった。
エミリは頭をぐらんぐらんと揺らし、完全に酩酊状態だ。「やーだーよーう。そんなベッドに寝られるかー。それ、あんたたちが寝るんでしょうがー。あーもー、やーらーしー。」最後はそう言い捨てて、その場でコテンと横になってしまう。
水泳教室のインストラクターのアルバイトをする際に、一応の救命講習は受けた。その時のことをおぼろげに思い出しつつ、エミリの口元に耳を寄せて、呼吸を確認する。その呼吸に乱れはなく、顔色も悪くはない。見よう見真似だが脈も診てみる。これも特に問題はなさそうだった。エミリの頬を軽く叩くと「うーん」と小さく唸って自力で寝返りを打つ。単純に寝入ってしまったのだろうと判断して、薄手の布団を一枚、エミリにかけた。
それを見て、涼矢はエミリが心配するほどの状態ではないことを察して、再びキッチンに戻った。
だが、明生はエミリの脇にしゃがみこみ、まだ不安そうに、その寝顔を見つめている。それから和樹を見上げた。「大丈夫かな? ベッドに運ぶなら、手伝うよ?」
「顔色も悪くないし、心配ないよ。少し寝かせてやれば、そのうち起きるだろ。」和樹ができる限り優しく言うと、明生がホッとする様子が見て取れた。
かと思いきや、今度はこんなことも言い出す。「ねえ、エミリってここに泊まってたことあるんでしょ。その時は、先生と一緒にベッドで寝てたの?」
キッチンの涼矢が動きを止めた。何も言わないけれど、返事を待っている気配は和樹にも伝わった。
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