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第779話 視線 (5)

 正解が何なのか判明したところで意味はない。ただ、ふいに思い出した、エミリの片想い。涼矢が自分に想いを寄せていたのとほとんど変わらない期間、その涼矢のことを、彼女は見つめていた。カノンも、他の女子たちも、涼矢自身でさえ、それを知っていた。エミリにしてみれば、そんなに長く恋していた相手を、最後の最後に何も知らない俺がかっさらっていったなんて、どれほど苦しく、悲しい結末だったことだろう。  今はもう恋情ではないのだとエミリは言う。確かに新しい彼氏もできたようだ。男はいつまでも昔の恋を忘れられずにいるけれど、女の恋は上書きだ、なんて冗談も聞いたことがある。それが本当だったらいいと思う。今夢の中で呟いた「りょう」が、涼矢を呼ぶ声でなければいいと思う。  もう一人、「夢うつつ」の中にいた涼矢もまた、エミリのその小さな呟きを聞いていた。直感的に自分の名前を呼ばれたと思い、それが和樹の声ではないことが無性に淋しくなった。  でも、その次の瞬間には、「涼、動けるか? ベッド行くぞ。」と言う和樹の声が聞こえてきた。和樹に支えられてなんとか立ち上がり、ベッドに腰掛けるところまではできた。  和樹の部屋。和樹の声。ベッドの上で、自分を支えてくれる和樹の腕。 「和樹。」それは無意識だった。すぐ近くにエミリや明生がいることも忘れて、涼矢は和樹に手を伸ばす。首に腕を巻き付けるようにして、和樹を抱き寄せた。もっと近くに来てほしくて、後頭部に手を滑らせて、和樹の顔を自分の顔に近づけた。  その時、近づく和樹の肩越しに、何かが見えた。視界がぼやけてよく見えないが、少年がトイレのドアから顔を出しているようだ。 ――あの子、誰だっけ。知ってる子だけど。なんで和樹の部屋にいるんだろう。  アルコールで朦朧とした意識の中で、確かな存在は和樹だけだった。あの少年が誰なのか、どうしてここにいて、自分たちのほうを見ているのか、それらを考えるのは面倒だった。  今は和樹をこうして抱き締めて、キスしたい。今日一日ずっと我慢していたのだから、もういいだろう。涼矢はぼんやりとそんなことを考えて、和樹の唇に自分の唇を重ねた。和樹は拒否しなかった。  和樹のほうはもちろん、エミリのことも明生のことも気にはなったけれど、背後の明生の視線に気付くことはなく、眼前の涼矢の誘惑に負けてしまった。昼間のアトラクションでこっそりキスを交わした時のように、スリリングなキスはいつも以上に興奮した。酔いも手伝って恍惚の表情を浮かべる涼矢に、自分も積極的に舌を絡ませていった。  だが、それ以上はできないことは分かっていた。涼矢が満足そうに目をつぶったのをいいことに、ベッドに横たわらせた。大人しく寝てくれたので、ホッとする。  そこでようやく振り返って、トイレを見る。ドアは閉まっていた。明生にキスシーンを見られていたことを知らないままに、和樹はトイレのドアをノックした。 「ごめん。」ドアを薄く開けた明生に、和樹は謝った。「悪かったな。家まで送るよ。」  普段は無精して開けっ放しの便座の蓋が閉まっていたのがチラリと見えた。用足しがしたかったわけでもない明生は、きっと蓋の上に座って時間を潰していたのだろう。よりによってそんな場所に押し込んで悪いことをした、と和樹は心から反省する。 ――いや、別に俺のせいでもないけどさ。  和樹は寝転がる涼矢とエミリを見やって、はあ、と溜息をつく。 「なんとか寝かせたよ。」和樹はベッドの脇に立ち、涼矢の寝顔を見降ろしながら、苦笑いを浮かべた。  すると、「寝てないってば。」と言う声と共に、手が伸びてきた。涼矢は和樹のシャツの裾をつかむと「起きる。」と言った。 「馬鹿、寝てろよ。」 「大丈夫だって。」その声はさっきまでとは違い、落ち着いていた。でも、体は思うように動かない感じで、今度は和樹の手を掴むと、それを支えにして上半身を起こした。それから、足だけおろして、ベッドに腰掛ける格好になった。今度は涼矢が、はあ、と深い溜息をつく。 「おまえ、さっき自分が何したか覚えてんの。」和樹が責めた。 「覚えてるよ。ごめん。」うなだれた姿勢で、涼矢が言った。 「明生に謝れよ。」厳しい声だ。  明生が慌てて「僕は、全然気にしてないから。」とフォローするが、そんな明生を見て、益々申し訳なさそうに猫背になって縮こまる涼矢だった。 「ごめん。」涼矢は明生に頭を下げた。「さっきのは、変な意味じゃなくて、ちょっと、ふらついちゃっただけだから。……なんて、言い訳にもならないな。」涼矢は落ち着かない様子で髪をかきあげる。 「俺、明生を家まで送ってくるけど、おまえ、大丈夫か? エミリもこれじゃこのまま泊めるしかねえよな。……ったく。」  涼矢は低い姿勢を更に低くして和樹にも謝まる。「本当にすみません。ちゃんと留守番します。」それから少しだけ上体を起こして、明生を見た。「明生、ごめんね。この次はもうちょっとカッコよくするよ。」

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