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第782話 視線 (8)

「ああ、帰りたくないなあ。」とエミリが言った。 「寮に? 実家に?」と和樹が言った。 「両方。どっちも顔を合わせづらい。」 「みんな応援してくれてるんだろ?」 「うん。だから余計会いにくい。パパはあたしが東京の大学に行くこと自体、反対してたしね。」 「あのパパか。」 「そっか、和樹は会ってるんだった。」 「涼矢も電話で話してるだろ?」  エミリのストーカー騒ぎの時、実家から駆けつけてきた父親。タイミング悪く和樹と一緒にいるところに遭遇し、あらぬ誤解を受けた。激昂する父親をなだめるために、エミリは和樹の承諾も得ずに、「彼は同性愛者であって自分とはただの友達に過ぎない」と言い出した。その上、突然その場で涼矢に電話をかけて、和樹と交際しているのは自分だと言わせた。 「あたし……ほんとひどいな。謝っても謝り切れない。」その時のことを思い出したエミリはしょげかえる。 「本当にひどいよ。」と和樹は笑いながら言った。「どうせひどいんだから、ひどいついでに、逃げ帰ればいいじゃん。それでエネルギーチャージして、また戻って来いよ。」  エミリはかすかな笑みを浮かべる。「……うん、そうだね。そんなあたしが、恥ずかしいだのみっともないだの言える立場じゃないよね。逃げ帰ったからって失うものがあるわけじゃないんだし、今よりマシになる可能性があるなら、そのほうがいっか。」 「そうだよ。」 「うん。ありがとね、和樹。……涼矢も。」 「俺は何もしてない。」 「美味しいごはんを作ってくれた。」今朝の朝食は、昨日エミリが食べ損ねた料理だ。 「出来立てを食べて欲しかったけどね。」 「ごめん。」エミリは照れ笑いをした。  和樹が「帰るとなると、寮にいっぺん戻るのか?」と聞く。 「ううん、だって、帰省するって言って出てきたんだもの、一応、それらしく旅行セット準備してきた。」  妙に鞄が大きいとは思っていたらそういうことか、と合点が行った。「じゃあ、この足で帰る?」 「そうね。こういう時は勢いで動いたほうがよかったりするよね。」 「相談できる人の当てはあるのか? 昔のコーチとか。」 「中学までお世話になってたスイミングスクールのコーチがいらっしゃる。高校は部活メインにしてたからあまり行ってないけど、今も連絡は取りあってる。挨拶程度だけどね。」 「それなら安心。」 「うん。でも、和樹に言われるまで、そのコーチに相談しようなんて思いつかなかったよ。今はなんか、久しぶりにコーチと話せるかと思ったら、ワクワクしてきちゃった。」 「ゲンキンな奴だな。」和樹は苦笑する。 「そうは言っても、家族とか……後援会ってほどじゃないけど、地元で応援してくれてた人たちに会うのはね、やっぱりちょっと気まずい。」 「彼氏は? 水泳は畑違いでも、スポーツしてる人なら愚痴ぐらい聞いてくれるんじゃないの。」  涼矢は内心ギョッとした。和樹は知らないのだ、エミリが「彼氏」として紹介したあの人とは、まだ恋人未満だということを。 「聞いてくれると思うよ。でも、あたしが嫌なの。弱いとこ、見せたくない。」 「えー、それ、彼氏としてはちょっと淋しいよ。」 「彼氏として?」エミリは和樹と涼矢を交互に見た。「あんたたちも、愚痴りあったりするの?」 「え、あ、いや。」和樹は口籠る。 「言わないでしょ? あたしだってそうよ。本当に大事な人だから、本当に辛いことは言いたくない。それに彼だって分かってる。成績見れば一目瞭然だもん。でも、何も言わないし何も聞かない。……もし、彼が事故った時、弱音を吐いていたらあたしはいくらでも聞いたと思うよ。そういう人だったら、今度はあたしが弱音吐いてたかもしれない。でも、そういう人じゃないから。」  もっと甘えればいいのに、と和樹は思う。その直後に、女の子なんだから、と思い、それを慌てて打ち消した。自分たちも似たような付き合い方だ。俺と涼矢はいいけれど、エミリと彼氏はダメなんて、筋が通らない。 「今日、帰る?」涼矢が言った。 「うーん、そうね。ズルズルしてると決心が鈍るから。」 「一人で帰れそう?」重ねて聞く。 「やだ、帰れるよ。オーストラリアだって行き帰り一人だったよ。」 「それとは意味が違うだろ?」  海外での強化練習のメンバーに選ばれて意気揚々と行ってきた時と、スランプに陥って地元に戻るのとでは当然違う。誰も口にしていないが、地元に戻って信頼できるコーチに相談したとしても、何もつかめなければ、選手に復帰できない可能性さえあるだろう。 「違わないよ。あの時だってうまくいく保証なんかなかった。今やれることするだけ。」エミリはきゅっと口を結んでこらえていたが、やがて涙をぽろぽろとこぼした。うつむいてシクシクと泣くような泣き方ではない。顔を上げたまま、まるで自分は泣いたりしていないと主張しているようにしているが、涙が止まる気配はなかった。それでも胸を張っている姿には、まだ諦めない、という決意を感じる。  こういう表情をどこかで見た、と和樹は思った。――ああ、そうだ、菜月だ。中学受験に失敗した時の。 ――なんでこんなに強いんだろう。なんでこんな風に、前だけ見て進んでいけるんだろう。

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