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第802話 to the future (10)
――問題、ね。
和樹がその単語だけを繰り返す。
「悪意がある奴だけの話じゃないよ。差別なんかしたくないって思ってても、実際どう扱えばいいか分からなくて困る人もいる。」
――扱いに困るって、俺ら別に珍獣じゃないし。
「でも和樹だってそうだったろ。俺に告られた時、困っただろ。好きでもない女の子から告白されて困るのとは違う困り方だっただろ。」
――だから、なんでそうやっておまえは昔のことをいつまでも根に持つの。
「根に持ってなんかない。でも、実際困った顔しながら『大丈夫だよ、気にしないよ』なんて言われてみろよ、そんな心にもないこと言わせて悪かったなってこっちだって気まずいよ。……けど、そんなのが何人もいると、そのうち、なんでそんなフォローされなきゃなんねんだよ、俺が何したんだよって腹立ってきて。」涼矢は思ってもいないはずのことを吐き出している自分に驚く。そんな風に思ってはいけないのだと心の奥底に封じていた感情があふれ出す。「けど、腹立てること自体、お門違いだろ。せっかく理解しようと思ってくれてる人に勝手に腹立てて、それから、そんな風に思っちゃだめだって自己嫌悪になる。だからそんな、相手も自分も追い詰めるようなことわざわざする必要はな……。」
――涼矢!
和樹が少し大きな声で名前を呼ぶ。その声で涼矢は我に返り、自分が涙ぐんでいることに気が付いた。和樹の呼びかけがその涙声を心配してのものだということにも。
「ごめ……。またかけ直す。」涼矢は一方的に電話を切った。
涼矢はしばらく呆然と立ち尽くしていた。
――俺、今、なんであんな、感情的に。
涙が頬を伝うのを感じたが、流れるに任せた。嗚咽でも慟哭でもない。静かに溢れ出る涙だった。
和樹を傷つけたくないと思っていた。思っていたつもりだった。自分とは"同類"ではなかったはずの彼を、自分が味わってきた屈辱と絶望から守りたかった。そのためには自分が矢面に立っていたかった。立っていたつもりだった。
でも、その実、和樹のほうを盾にしていたのではないか。
和樹は床にへたり込んでいた。何かまずいことを言ったのか?と自問自答する。だが、泣かせるほどひどいことを言った覚えはない。今までも何度か繰り返してきたような会話だったと思う。
涼矢は、親にゲイだってバレてて、その上で俺とのことも理解してもらえてて。大学の友達にも隠してなくて、それでも親しくしてる友達はいて。柳瀬にしろ奏多にしろ、どこまで分かってくれてるのか知らないけれど、きっと「涼矢のすることだから」という理由で理解しようとしてくれてるんだろう。なのにどうしてあんなに怖がる必要があるんだろう。……腹が立つ、と言ってたな。それならそれでいいんじゃないか。おまえは腹立てていい。高村にはもちろん、ヒロにも、哲にも、怒っていいだろう。分かったような口を利くなと、おまえと一緒にするんじゃねえよと、怒っていい。なのに、どうして我慢するんだ。
おまえの言う通りだよ。俺たち、何も悪いことしてないじゃないか。なんでおまえが泣く必要がある?
なあ。
おまえ言ってたじゃないか。
――本気で2人で生きて行こうと思ったら、これから、いろんなことを犠牲にすると思う。
――それでも、そういう時には、一緒に傷ついてほしい。
あの時、俺、「分かった」って言ったじゃないか。
なんでおまえ一人で傷つこうとするんだよ。
和樹は手にしたままのスマホを眺める。「かけ直す」と言った涼矢からの着信はまだない。端末に保存してある画像データを開いて、順繰りに見た。やがていつかの動画のサムネイルが現れた。再生マークに触れる。
キスの瞬間の写真を撮影するものだと思い込んでいる涼矢が、ほんの少し緊張した顔で映っている。そんな涼矢の耳やその下や、頬にキスをしている自分。涼矢がくすぐったそうに笑っている。和樹から軽いキスをすれば、涼矢からは深いキスが返ってきた。マナーモードにしているから声は聞こえてこないが、涼矢の動く唇が何と言っているかは暗記している。「写真、撮らないの? キス写真、撮りたかったんだろ?」。
淋しい時には、その短い動画を見た。何度も見た。淋しい時が何度もあったから。
次に会う時には新しい動画を撮ろう、と思う。思い切りハッピーになれるような。
そんな時、涼矢からの着信を知らせる通知が表示され、即座に出た。
――ごめん。
開口一番に謝る涼矢。
「少しは落ち着いた?」
――うん。ごめん。
「謝るなって。おまえ、謝り癖がついてんぞ。」
――そっか。ご……いや、なんでもない。
「言った矢先に。」和樹は笑った。
――さっきのは、その。和樹のせいじゃないから。
「ああ、うん。俺もそう思う。俺、別に、変なこと言ってないよな?」
――言ってない、です、はい。
「なんだ、その言い方。」また笑う。
――怒ってない?
「なんで怒るんだよ。そんな必要ないだろ。まぁちょっと、淋しくはあったけど。」
――淋しい?
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